澤柳 政太郎

2013.08.16

小原國芳に多大な影響を与えた元文部官僚の教育家

澤柳政太郎

澤柳政太郎(さわやなぎ まさたろう)は、1865(慶応元)年、信州松本藩の藩士、澤柳信任の長男として生まれる。1888(明治21)年に帝国大学(のちの東京帝国大学)文科大学哲学科を卒業後文部省に入る。文部官僚時代には、1908(明治41)年7月の次官退官までの約10年間、文部行政の中枢を担い、特に小学校令を改正して義務教育年限を4年から6年に延長するとともに義務教育費の無償化を行った。1909(明治42)年12月に貴族院議員となり、1911(明治44)年には新設の東北帝国大学(現在の東北大学)総長に就任、1913(大正2)年には京都帝国大学(現在の京都大学)の総長となった。しかし、教授の任免権限と運用のあり方をめぐって教授会と対立し、1914(大正3)年4月に京都帝国大学総長を辞任(京大澤柳事件)。なお、同年7月には文学博士の学位を受けている。

退官後は民間教育家として多角的に活動し、1916(大正5)年には帝国教育会会長に就任。翌年の1917(大正6)年には新教育の実験校として東京市牛込区(現在の新宿区)に私立の成城尋常小学校を設立し、校長となり、児童の自発性を重んじた教育を展開した。澤柳は、長田新(後に広島大学学長に就任)の推薦により、同校に小原國芳を広島から招聘した。そして、1921(大正10)年、小学校の卒業生が進学するための成城第二中学校が、小原國芳の尽力により開設された。1925(大正14)年に同校が現在の世田谷の地に移転し、成城学園となった。澤柳の指導の下、「一、個性尊重の教育、附・能率高い教育 二、自然と親しむ教育、附・剛健不撓の意志の教育 三、心情の教育、附・鑑賞の教育 四、科学的研究を基とする教育」を掲げ、その実践に努め、新教育運動に大きな影響を与えた。小原國芳の「全人教育論」は、「八大教育主張」の一つとして、成城学園小学校主事の時に発表されたものであった。澤柳は、大正自由主義教育運動の中で中心的な役割を果たした。

中央左は澤柳博士、中央右は小原 1921(大正10)年

『澤柳教育―その生涯と思想―』に、当時の小原國芳との関係がつぎのように記載されている。「小原主事の来任とともに、成城は面目を一新して若々しい活気があふれだしてきた。主事は講演に著述に、さらに学校内容の改善に向って、全身のエネルギーを傾注した。間もなく成城の名声は天下に鳴るに至った。とくに教師自らの修養を『進みつつある人のみ人を教うる権利あり』の信念に徹底させ、同人の大学入学、海外研究派遣等が計画され、着々と実施された。これらが小学校教育者の修養に新しい刺激と記録を提供したことはいうまでもなく、小原主事の偉大なる卓見と断行であった。またこれとならんで研究雑誌『教育問題研究』が発刊された。これも当時としては破天荒のことであった。会員はたちまち六千を数えるに至り、小学校教育の羅針盤となった。(略)大正十一年に成城第二中学が生まれたが、同十四年には東京府下北多摩郡砧村に移転し、同十五年にはその原頭に成城高等学校が創設されることとなった。ついて昭和二年三月には成城高等女学校の誕生を見るにいたった。小原主事は獅子奮迅の勢をもって、縦横無尽に独走したが、それを無条件的な理解の下に温かく抱擁して十分の腕を揮わせたところに、澤柳博士の偉大さがあった。」澤柳博士は、中学校、女学校、高等学校と拡大することをあまり好まなかった。しかし、当時の生徒の保護者の熱心な働きかけを小原國芳は無視できず、また「やれるなら、やりたまえ」との澤柳の言葉を得たこともあって、学園拡充に奔走したのである。

1921(大正10)年8月3日から翌年の6月30日までの約11カ月間、小西重直(後に京都帝国大学総長に就任)や長田新たちと第一次世界大戦後の欧米教育を視察。フランス、イギリス、ベルギー、オランダ、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、オーストリア、スペイン、スイス、イタリア、そして最後にアメリカを回り、戦後の欧米の教育を自分の目で確認してきている。この教育行脚により、欧米の教育者たちと親しく接する機会を得、国際教育家として名声を博することとなった。この視察の後、太平洋問題調査会や世界連合教育会などの活動にも深く関わり、日本国際教育協会会長も務めている。

ヘレン・パーカスト女史を迎えて
1924(大正13)年  於:成城小学校
左より澤柳博士、パーカスト女史

また1922(大正11)年に、ロンドン大学の教授であるダニエル・ジョンズ博士の助手であるハロルド・E・パーマー講師を日本に招聘した。このことは、わが国の英語教育史上に残る出来事となった。翌年、文部省内に設立された英語教授研究所(現在の語学教育研究所)の理事長に澤柳が、そして所長にパーマー氏が就任した。
さらに小原主事の熱望に応えて、ダルトン・プランの創始者ヘレン・パーカースト女史をわが国に招聘した。パーカースト女史は1924(大正13)年に来日し、各都市で講演を行い、わが国の新教育界に大きな影響を与えた。

1926(大正15)年3月に成城高等学校校長、4月に大正大学学長にそれぞれ就任した。そして1927(昭和2)年6月にハワイ、トロント、リオネジャネイロにおける国際会議等に出席するため横浜を出港し、ロンドン、パリ、ジュネーブ、ベルリン、モスクワを歴訪した後、同年11月に帰国。帰国10日後に大陸性悪性猩紅熱のため入院し、同年12月24日に満62歳で死去。

澤柳全集(全6巻)

1890(明治23)年から1897(明治30)年、20代の中頃から30代はじめにかけて数多くの著作を世に送り出し、教育学者、思想家としての資質の大きさを示した。当時の代表的作品は、『公私学校比較論』『心理学』『仏教道徳 十善大意』『倫理書』『読書法』『格氏 普通教育学』『格氏 特殊教育学』『普通心理学』『教育者の精神』『ペスタロッチ』などである。この間、1891(明治24)年に結婚し、その後五男三女をもうけている。文部次官時代の末期、すなわち1908(明治41)年に真性腸チフスにかかって約3カ月の間入院。健康回復後、著作活動に専念し、澤柳の名前を後代に残すに足りる代表的な名著を次から次へと発表した。実証的な教育学の建設を提起して日本の教育学史上記念すべき著作となった『実際的教育学』をはじめ、『教師及び校長論』『学修法』『退耕録』『我が国の教育』『孝道』や中学・高等女学校・実業学校の修身教科書などである。また、1925(大正14)年には『澤柳全集』が出版された。

【参考】
成城学園前駅の北口を出ると桜並木がつづいている。昔はこの道を「澤柳通り」と呼んでいた。因みに成城学園正門からまっすぐに西に伸びる銀杏並木で有名な「正門通り」は、別名「小原通り」とも呼ばれている。成城学園前駅から「澤柳通り」を進んで二つ目に交差する道が「小原通り」である。

参考文献
小原國芳・小林健三『澤柳教育』玉川大学出版部 1961
「成城学校八十年」編纂委員会編『成城学校八十年』学校法人成城学校 1965
校史編集委員会編『成城学校百年』学校法人成城学校 1985
「澤柳政太郎について」成城学園教育研究所ホームページ