ジョン・デューイと同夫人

2014.03.19

新教育に多大な影響を与えたアメリカの哲学者であり教育者

デューイ夫人と小原國芳夫妻 デューイの肖像画の下で 1969(昭和44)年10月

20世紀アメリカの思想の主流といえるプラグマティズム。この思想の提唱者として知られるのがウィリアム・ジェームズ、チャールズ・サンダース・パース、そしてジョン・デューイである。ジェームズやパースがプラグマティズムの思想を深める一方で、デューイはその思想を社会、特に教育の分野で実践したことで名を残した。小原國芳が牛込成城小学校で取り組んでいた第一次新教育もデューイが提唱した教育の原理・方法を用いていた。1919(大正8)年にデューイは日本を訪れているが、その来日50周年を記念して玉川大学にて1969年に記念講演会が行われた。

1859年にアメリカ・バーモント州で生まれたジョン・デューイはバーモント大学を卒業後、地元で教師となる。その後ジョンズ・ホプキンズ大学大学院で心理学を学び始める。1884(明治17)年からはミシガン大学に勤務。1889(明治22)年には同大で教授となる。デューイが30歳の時のことであった。そしてこの当時、大学講師となったジョージ・ハーバート・ミードとの親交を深める。ミードがジェームズの教え子であったことから、デューイ自身もその影響を受けるようになっていった。

ジョン・デューイの名が世間に知られるようになるのは、1894(明治27)年に彼が新設されたシカゴ大学へ移ってからのことである。哲学科の主任教授として招かれたデューイは、2年後の1896(明治29)年、シカゴ大学内に実験学校(Laboratory School)を開設する。それは、教育学は化学や物理学と並ぶ一つの実験科学であるという彼の理論の検証の場であった。大学の近くの民家を使い、16人の子どもに教育を行うことからスタートした。

ジョン・デューイは学校教育において子供たちが知性的な行動を身につけてその能力を育てることや、協調性を身につけることを重視した。そのためには子供を中心とした社会を構成し、その中で子供たち自身が目標に向かって協調していくことこそ大切であると考えていた。そこで彼がカリキュラムの中心に据えたのがオキュペイション(occupation)である。一般的に仕事や労働と訳されるが、彼はこのオキュペイションを嫌々行う「作業」とは切り離して考えていた。つまり、子供たちが目を輝かせて取り組むような社会的活動を通して、知識を吸収し、人間として成長することを目指したのである。たとえばデューイは羊毛や綿花から糸を紡ぎ出して服を作ってみるといった活動を挙げている。布から服を作るといった科学的な知識を得ることができるし、人間の歴史的な進歩を知ることもできる。また子供たち同士が協力し合うことも学ぶことができると考えたのである。そして彼はこうした学習経験から、民主主義を支える一員となっていく能力が育つと考えたのであった。

デューイが開設したこの実験学校に対してシカゴ大学は当初は冷淡な対応をしていたが、それでも16名の生徒から始まったこの学校は、2年後には83名の生徒を擁するまでに拡大した。1899(明治32)年にデューイは保護者や後援者を前にして、そこでの教育研究の報告を行い、今後の課題について語った。その記録がのちに出版された『学校と社会』である。彼の実験学校は1903(明治36)年まで続き、のちに「デューイスクール」と呼ばれるようになる。こうした教育学の分野での活動が評価され、デューイはアメリカ心理学会の会長にも選出されている。1904(明治37)年にはコロンビア大学の哲学科教授に就任し、翌年にはアメリカ哲学会会長にも推挙される。こうしてデューイはアメリカの哲学・教育学の分野の第一人者として知られるようになるのである。

ジョン・デューイは晩年までコロンビア大学の教授として研究と学生の指導を行っていたが、その中で日本訪問の機会も得ている。1919(大正8)年、デューイは日本へ招聘され、東京帝国大学で8回の講演が催された。デューイの来日から既に一世紀近くが経とうとしているが、彼の提唱した教育哲学や教育法は、アメリカや日本はもちろん、世界各国の教育の現場で息づいている。たとえば医学の分野においては不可欠ともいえる問題解決型学習(Problem Solving Learning)も、その基盤はデューイが考案したものである。こうした個別の指導方法に限らず、単に教え込むのではなく生徒の可能性を見つけ、実践の場で伸ばしていくという教育方法は、現代においても理想の教育の一つとなっている。

デューイ夫人より背広を贈られた小原國芳

1952(昭和27)年、ジョン・デューイは惜しまれつつも93年の生涯を閉じる。亡くなる前年にハワイに滞在していたデューイは、そこで体調を崩したためロサンゼルスへ戻り、治療を受けることになる。彼がハワイに滞在していた理由、それは来日するためであった。「体調が戻ればぜひまた日本を訪れたい」と言っていたデューイの願いは、結局叶うことはなかった。けれども彼の優れた功績から日本でも「日本デューイ学会」が発足。多くの研究が行われている。特に日本におけるデューイ研究の第一人者といえる玉川大学元教授・永野芳夫の働きにより、デューイの死から3年後の1955(昭和30)年にはデューイ夫人が来日。日本各地で行われたデューイ追想記念講演会で登壇すると同時に、玉川学園にも足を運んだ。京都大学の教授だった鰺坂二夫は著書である『デューイの教育学』の中で、「デューイ博士の『明日の学校』という本は、吾々から見ると、今日の学校である。否、昨日の学校である。日本には既に、こんな学校がある」といって玉川大学のことを紹介し、「あの老教授がその学校を見られたら目を丸るくして驚嘆されるだろう」とある。デューイスクールは設立間もない玉川学園に通ずる部分も非常に多く、デューイと小原國芳が目指そうとした教育は非常に似通っていたのではと感じさせる。デューイ夫人はその後、1969(昭和44)年にも再来日を果たしている。デューイ来日50周年の祝賀会に招かれてのことだった。その会場は玉川大学。これは1967(昭和42)年に逝去した永野芳夫の、たっての願いでもあったという。なお、デューイ夫人からその際贈られた博士の背広は、本学教育博物館で大切に保管されている。


参考文献
小原國芳『世界教育行脚』玉川大学出版部 1955
小原國芳編『全人』第35号 玉川大学出版部 1952
小原國芳編『全人』第69号 玉川大学出版部 1955
小原國芳編『全人教育』第242号 玉川大学出版部 1969
皇至道著『西洋教育通史』玉川大学出版部 1962