新制大学 文学部・農学部

2014.03.31

総合大学への足がかりとなった、2学部の開設

玉川大学第1回卒業式 1952(昭和27)年3月10日

戦後、アメリカの占領政策に基づく学制改革に伴い、日本にも6・3・3・4制が採用され、玉川大学も新制度に切り替えられることとなった。そして設置認可を受けたのが、新制玉川大学である。1949(昭和24)年2月21日のことであった。
旧制玉川大学が文農学部の1学部のみの体制だったのに対し、新制玉川大学は文学部と農学部の2学部制をとった。また文学部は教育学科と英米文学科の2学科が設置された。これにより、現在に至るまでの玉川大学の基盤が整ったのだった。
新制玉川大学は旧制玉川大学や旧制玉川工業専門学校からの編入学も認められ、1949(昭和24)年4月8日、小原の誕生日に入学式が行われ、多くの学生が新制玉川大学学生となった。

文学部は教育学科と英米文学科で構成されているが、ことに教育学科の設置は玉川大学にとって大きな意味を持っている。それは、新教育を主張して30年、教育行脚として日本全国で講演を行ってきた小原國芳の多年の悲願である、新教育に基づく私立大学による義務教育の教員養成が、日本で初めて誕生したからである。
設立直後の講師陣は、小原をはじめ田中寛一(教育学史、心理学、心理学特講)、波多野精一(西洋哲学史、宗教哲学、哲学特講及び演習)、鈴木清(教授法、心理学、心理学特講及び演習)、清水清(教育学原論、教育学特講及び演習)、稲津紀三(東洋哲学史、哲学史演習、哲学特講及び演習、倫理学)の6教授、品川不二郎(心理学特講及び実験、論理学)助教授、および橋本道(体育)講師であった。
教育においては音楽と体育の科目化と必修化に力が入れられていること、及び理論と実践の調和的発展をめざして、一方において労作、教育実習を重視するとともに、他方において哲学、倫理学、美学、宗教哲学を重視している。特に教育実習に関しては全学がキャンパス内にあるというアドバンテージを生かしたさまざまな活動が行われた。

一方の英米文学科は、国際的に重要な役割を持つようになった英語力を養成し、これを基礎として英米の文学と文化の研究を行い、豊かな語学力と教養を備えた国際人の育成を目標にしたが、これは玉川学園の教育12信条、特に国際教育の精神に基づくものであり、今日においても変わることはない。
初代の主任教授には英語、英文学の権威である須藤兼吉が就任し、阿部鵬二、秋山平吾、大橋吉之輔、皆川宗一、山本政喜、トマス・ライエルらが専任教員として学生を指導した。
授業は大学本部わきの木造平屋建ての校舎が使用された。小原國芳は当時を回顧して「第一回生というものは、どこの学校でも優秀な諸君が群出するものですが、何しろ須藤教授を中心に勇将の下、弱卒なし、優秀な先生方が済々、全く愉快でした」と述べているが、須藤教授を中心とする教授陣と学生が混然一体となって学業に励み、文字通り師弟同行の教育が行われていた。

小原國芳学長からの卒業証書授与

農学部は文部省所管の新設認可制であったため、校舎、教員、各種備品、図書などに基準があり、設置関係者の立案には苦労が多く、特に教員の資格審査が文部省側の委員会で実施されたので、講師陣の構成は予想以上に難しかった。それでも農学部長の宗正雄を中心に、多くの優れた講師が農学部に集まった。
農学部の教育は開校当初から専門研究室を中心に、その地域性、環境などの諸条件を生かしながら、師弟同行の研究体制の下に活発に進められた。学園全体の教育信条の中に、実践、労作が重視されているところからも当然であるが、農場実習は積極的に実施され、農産物の生産、販売にも努力が払われてきた。このような「晴耕雨読」の基本精神が強く打ち出され、しかもその中に音楽、体操などの情操教育も忘れることはなかった。泥と汗にまみれても、一方では合唱やピアノ演奏も行うという文化的農学、及び明るい農村作りを深く念願していた。

このように、新制玉川大学では各学科が自らの特徴を持って学生の指導を行っていた。そして第一回生の卒業式が1952(昭和27)年3月10日に行われた。この数十名の卒業生を輩出してから60余年、現在では1学年に2,000人弱の学生を擁する総合大学へと成長した。時代は変わっても、現在の玉川大学には開学当初の師弟同行の教育が今も息づいている。


参考文献
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980