玉川から生まれた音楽

2014.03.20

玉川の愛唱歌から、日本の愛唱歌へ

1937(昭和12)年2月15日付朝日新聞

生徒全員が持つ『愛吟集』に代表されるように、玉川学園では教育はもちろん、日々の生活の中に豊かな音楽が息づいている。そして、そうした活動の中から生まれ、学園内はもとより日本中の誰もが知るような一曲へと成長した歌も少なくない。特に知られているのは「どじょっこふなっこ」であろう。「春になれば〜」で始まる、誰もが子どもの頃に口ずさんだことのあるあの歌は、実は玉川学園で生まれたものなのだ。

学園創立から間もない1935(昭和10)年2月10日、玉川学園では東京・九段において学園祭を開催した。これは現在多くの学校で行われている学園祭とは多少趣旨が異なり、その教育の成果を発表すると同時に学園関係者や父母の懇親という意味合いが強いものだった。その舞台では声楽家上野耐之の独唱、玉川学園混声合唱団の合唱、小学部生の学校劇、留学生の無言劇、漫談映画と劇映画などが披露された。翌年もこの学園祭は開催され、さらには地方公演旅行へと発展していく。これは当時のヨーロッパで広く行われていた学生による公演旅行に倣ったもので、デンマークへの留学経験を持つ体操教師、斎藤由理男の発案によるものだった。玉川の体操と音楽の成果を地方へと伝えていこうという趣旨で、当時日本各地で講演を行っていた小原國芳と共に全国を回ることになった。

最初の公演旅行は1936(昭和11)年の4月から5月にかけて、東北地方を回ることで実現した。この公演旅行では健康な心と身体を作るために体操が重要な役割を果たしていることを理解してもらうと同時に、音楽の持つ明朗さ、快活さを感じてもらうことが目的であった。そして各地を回る過程で、それぞれの土地に伝わる民謡や唄を取り入れることも多かった。

この公演旅行で秋田市郊外の金足西小学校を訪れ、体操や合唱の披露が終わった後、一行の歓迎会が催された。会は玉川の合唱と秋田の民謡やいろいろな芸能を交互に発表し合うというかたちで行われた。何度か交歓が行われた後、秋田側で指名により立ったのが中道松之助。この先生がたまたま歌った歌こそ、「どじょっこふなっこ」の原曲だったのだ。ただ、この時に披露されたのは「ハァー、春になればぁー、すがこもとけでー…」といった詩吟調のもので、現在歌われているメロディーとは全く違ったものであった。それをアレンジして現在のメロディーに仕上げたのは、当時音楽教師として同行していた岡本敏明だった。こうして「どじょっこふなっこ」は、この歓迎会の会場で誕生した。そしてこの歌は生徒たちによってすぐに練習され、翌日の本荘市での公演で披露。大喝采を受けたという。今では日本の誰もが知っているあの童謡が誕生した背景には、こんなエピソードがあったのだ。
また九州巡演の際には、鹿児島の民謡である「おはら節」を合唱曲としてアレンジし、披露したこともあった。これは鹿児島出身である小原國芳の口伝で採譜した節を、岡本敏明が移動の車中で編曲したものだった。民謡を学校の教材とすることは海外では当たり前なのに、当時の日本では全く行われていなかったが、玉川学園ではこうやって生徒たちに触れさせていた。

関西九州地方公演 第1富高小学校 1936(昭和11)年7月17日

この他にも、玉川学園によって広く知られるようになった歌に「かえるの合唱」がある。子どもの頃に誰もが友だちと一緒に歌ったであろう、代表的な輪唱曲である。この歌はスイスの教育者ヴェルナー・チンメルマン博士が玉川学園に半年ほど滞在した折りに、岡本敏明に教えた歌が基となっている。その歌に岡本が日本の子供のために作詞をしたものが、「かえるの合唱」として知られるようになったのだ。岡本によれば、「かえるの合唱」はチンメルマン博士から教えてもらった歌の中で、最初に日本語の歌詞をつけたものであり、この経験から数多くの輪唱を日本に紹介したという。

このように玉川学園で生まれ、その後に日本の誰もが口ずさむようになった歌は少なくない。そして、そうした歌が生まれる土壌が玉川学園にはある。歌に始まり、歌に終わるような一日。それぞれの校舎から聞こえてくる歌声。小原國芳が理想とした教育は、玉川の丘を越えて日本各地へと広がっていったのだろう。


参考文献
岡本敏明「実践的音楽教育論」 カワイ楽譜 1966
岡本敏明編「玉川合唱楽譜」 玉川出版部 1946
佐藤邦昭「草笛歌めぐり」 しまどり社 1996