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大学のクラブ活動のはじまり

2023.06.19

課外活動について、玉川学園創立者小原國芳は「全く尊い人間修業でした……仕事の進め方、折衝の仕方、工夫、物のいい方、文案の作成、訪問の仕方……教場で教えて頂けない教訓や漫談や振興談や研究苦心談やら書物の上で得られないホントの教育を豊富に受け得た」(『小原國芳自伝(1)』)と述べている。

1.玉川大学が設置される以前、クラブ誕生の基礎となった活動

1929(昭和4)年の玉川学園開校と時を同じくして誕生したのが玉川ラグビー。玉川学園旧制中学でラグビーが始動し、玉川ラグビーの歴史がスタート。そして、1949(昭和24)年に大学ラグビー部、1958(昭和33)年に高等部ラグビー部、1981(昭和56)年に中学部ラグビー部、1998(平成10)年に小学部ラグビー部がそれぞれ創部された。

玉川学園旧制中学ラグビーフットボール部
1932(昭和7)年
旧体育館
創部当時の部室でもあり集会所でもあった

1931(昭和6)年9月7日、ニルス・ブック率いるデンマーク体操団の一行26名(団長以下体操手男子13名、女子12名)が来日。来園時に、玉川学園は「オレロップ国民高等体操学校東洋分校」として認定され、デンマーク体操を教育の場に取り入れていく。来園時のことが、『ZENJIN』第639号の「故(ふる)きを温(たず)ねて」に次のように記載されている。

この一行は夜になると民族衣装に身を改め、フォークダンスや合唱を披露し、当時の玉川っ子に大きな刺激を与えた。堂々とした身体で、体操ができ、歌も歌える姿に、彼らは全人教育の理想とする調和的人格を重ねたに相違ない。その後、玉川では基本体操普及を中心にして、合唱や劇を交えての公演旅行を行うことになる。

デンマーク体操団一行
デンマーク体操団一行の
歓迎デモンストレーション

1936(昭和11)年2月に東京・九段の軍人会館(後の九段会館)において玉川学園の学園祭が開催された。この舞台で生徒たちは体操や合唱を披露し、喝采を浴びることとなった。こうした雰囲気の中で、「この成果を地方でも公演できたら」という提案がなされ、玉川学園の公演旅行は実現に向けてスタートを切る。公演旅行は東北地方、東海地方、関西地方、九州地方、土浦・日立方面、広島方面、宇都宮、吹田市・天王寺など、まさに全国を回るものであった。小原國芳の講演のほか公演旅行で披露される演目は体操や音楽、寸劇だけにとどまらず、時には交響楽団の演奏会に出演することもあった。

東北地方での体操・音楽公演
1936(昭和11)年
関西・九州地方での体操・音楽公演
1936(昭和11)年

1933(昭和8)年11月19日、第7回競演合唱祭に玉川学園混声合唱団が初参加。玉川学園混声合唱団は音楽部とも呼ばれていた。競演合唱祭の結果は、混声部門第1位、総合では第6位。当時の競演合唱祭は東京市の主催で、文部省の後援、協賛が国民音楽協会・東京音楽協会などで、合唱団の日本における唯一の登龍門であった。翌年の第8回は混声1位、総合4位、第9回は混声1位、総合2位。第10回は10回を記念して文部大臣賞杯が用意されていた。そして玉川学園混声合唱団は見事総合優勝し、この文部大臣杯を手にしたのであった。

第10回全国競演合唱祭

またその頃、ハーモニカから発展した吹奏楽部が、玉川学園運動会(体育祭)や1933(昭和8)年4月2日に小原國芳が初代の園長となって開校した玉川学園鵠沼分園の海の家の集いなどで演奏。1935(昭和10)年には第一騎兵連隊が来園したのをきっかけに馬術部(乗馬部)が誕生し、翌年本学のグラウンドで南多摩地区の馬術競技会が開催されたこともあった。塾の付近にはテニスコートが作られ、また剣道なども盛んに行われていた。1938(昭和13)年、玉川学園合唱団がキングレコードで「愛国行進曲」を吹き込み、その歌声は津々浦々に広がっていった。

太平洋戦争勃発直前の1941(昭和16)年4月、玉川学園校友会は玉川学園報国団に組織変更。その年の学園報国団の名簿には、海洋部、航空部、国防競技部、国防部、グライダー部、自動車部、射撃部、乗馬部、ボート部、落下傘部などの名称を見ることができる。

完成した落下傘滑降台にて降下訓練
1941(昭和16)年
グライダーの訓練を体育祭で公開
1942(昭和17)年

スポーツ活動における対外試合の記録として残っているのは、1933(昭和8)年のラグビーの試合。その記録には、関東7人制ラグビー大会の決勝戦で、早稲田実業に惜敗したと記載されている。

2.玉川大学設置後のクラブ活動

1946(昭和21)年10月1日、財団法人玉川学園は、大学令による玉川大学設立を申請し、1947(昭和22)年2月24日に認可を受け、同年5月21日に開校式の運びとなった。総合学園として理想的な一貫教育をという見地から、何としても最高学府たる大学を設置したいという小原國芳はじめ玉川学園の多年の悲願がここに実現。しかし、前年に開会された帝国議会において学校教育法が可決成立する見込みとなったこともあり、旧制大学令に基づく大学認可は玉川大学で終了となる。

玉川大学が誕生したことにより、前述の諸々の活動を基礎にクラブ活動が活発に行われていく。1948(昭和23)年の校友会名簿には、文化部として9つの部、運動部として8つの部の名称が掲載されている。文化部として掲載されていたのが、演劇部、音楽部、国際文化部、自然科学部、児童文化部、写真部、美術部、文芸部、弁論部。運動部として掲載されていたのが、山岳スキー部、水泳部、体操部、卓球部、庭球部、バスケットボール部、バレーボール部、野球部。

学制改革により学校教育法が施行され、玉川大学が誕生した2年後の1949(昭和24)年2月21日に新制玉川大学が設置認可された。その年、大学ラグビー部が創部。体育会第1号として部活動が認められた。

大学ラグビー部
1950(昭和25)年卒業生の援助でできた
初めてのユニフォーム

1954(昭和29)年、小原國芳が日本人の開拓精神の高揚と国際協力の必要を説いたのを受けて、農学部生が中心となり、南米農業研究会が発足。その活動は海外協力研究部へと受け継がれていった。現在屋内温水プールのあるところに、学生たちの労作によって造られたテニスコートらしきものが二面あった。1960(昭和35)年には庭球部が誕生し、そこを使用して活動を開始。同じ頃、ワンダーフォーゲル部が発足。当時は文学部教育学科の女子学生が中心に活動していたため教育学科所属の部として部活動が認められた。その後、文学部英米文学科の所属になったりもしている。

弓道部は和弓をやる人たちだけで活動を行っていたが、やがて洋弓に興味を持つ人が増えていった。洋弓部は学習院大学や日本体育大学などとともに関東学生洋弓連盟を結成。学生洋弓界の草分け的存在となる。現在屋内温水プールのあるところに設置されていた射場は、日本で最初の射場の一つでもあった。この射場は新射場が完成する1965(昭和40)年の夏まで使用。この頃、合唱団、オーケストラ部、E.S.S.、地理研究部、スキー部、写真研究部といったクラブが独立、次々と新しいクラブが誕生していった。

弓道場開き(新弓道場が完成)
1966(昭和41)年

3.クラブ活動の組織化と活性化

1962(昭和37)年当時、クラブ活動はいろいろな形式で行われていた。例えば、体操部、ラグビー部、弓道部、合唱団は高等部と合同で活動。学部や学科に所属していたクラブもあった。南米農業研究会やワンダーフォーゲル部は学部の所属、演劇部や美術部、児童教育部は学科の研究室の所属。このような状況の中、学生部の学生課を中心に、玉川大学におけるクラブ活動の意義や指導方法の確立、組織の構築、施設の拡充などの検討が行われ、システムが整備され組織化されていった。

同年10月1日に体育会の発会式が開催され新制体育会が誕生。それと同時に同好会が発足。さらに以前からあった研究会連合が学術研究会と改称。1963(昭和38)年の『学生便覧』には、課外活動の組織として次のようなクラブ名が掲載されている。

会名クラブ名
学術研究会 英米文学、地理、聖書、視聴覚、児童教育、音楽、美術、海外農業
学友会体育会 体操、ラグビー、庭球、弓道、スキー、卓球、ワンターフォーゲル
【準部】
陸上競技、剣道、バレーボール、バスケットボール、馬術
同好会 茶・華道、男声合唱、児童文化、書道、演劇、写真、文芸、E.S.S.

1964(昭和39)年、東京オリンピックが開催された年には、学術研究会と同好会が統合して文化研究会連合となった。また同年、体育会は「体育会会報」創刊号を発刊。小原國芳はその創刊号の巻頭に、次のような文章を載せている。

君達の競争相手は無限の大空、確乎不動の大地。体育もとより優勝旗のために非ず。トロフィーのためにもレコードのためにも況んや賞状、賞品のために非ず。人間走れども馬に如かず。泳げども大魚に如かず。力においては牛に如かず。人の目ざすものは何か。玉川っ子たるものすべからく全人教育の上に立て。

1966(昭和41)年には、玉川学園創立以来、玉川教育とともに歩んできた体操、音楽、美術、演劇の各部が、玉川教育直属会として新たに会を組織した。そして、それ以降直属会、体育会、研究会、同好会の4会でクラブ活動が運営されていった。現在は各クラブが体育会と文化会の2会のどちらかに所属して活動を行っている。

ゴルフ練習場竣功式
1966(昭和41)年
美術部
1973(昭和48)年
ラグビー部
1973(昭和48)年
サッカー部
1974(昭和49)年
バレーボール部
1974(昭和49)年
バスケットボール部
1974(昭和49)年
少林寺拳法部
1974(昭和49)年
空手部
1975(昭和50)年
オーケストラ部(管弦楽団)
1975(昭和50)年
合唱団
1975(昭和50)年

1976(昭和51)年の大学の「倶楽部紹介誌」に掲載されているクラブは以下の通りである。

会名クラブ数クラブ名
体育会 20 ラグビー部、ワンダーフォーゲル部、庭球部(男子)、庭球部(女子)、洋弓部、卓球部、弓道部、ゴルフ部、スキー部、サッカー部、剣道部、柔道部、少林寺拳法部、バレーボール部、バスケットボール部、陸上競技部、器械体操部、バドミントン部、ボクシング部、空手道部
同好会 14 写真部、花卉装飾部、日本舞踊研究部、筝曲部、聖書研究部、T.C.M.S.、赤十字奉仕団、茶道部、ユースホステルクラブ、日本文化研究部、文芸部、ドイツ文化研究部、Don glee-男声合唱団(どんぐりーくらぶ)、落語研究部
直属会 7 合唱団、演劇部、デンマーク体操部、オーケストラ部、美術部、芳薪会(労作部)、水泳部
研究会 15 教育問題研究部、児童文化研究部、児童文学研究部、L.L.研究部、地理研究部、E.S.S.研究部、僻地教育研究部、無線・音響研究部、造園研究部、海外協力研究部、哲学研究部、電子計算機研究部、生物自然研究部、自動車工学研究部、経営工学研究部
体操部
1978(昭和53)年
演劇部
1978(昭和53)年
E.S.S.研究部
1978(昭和53)年
造園研究部
1978(昭和53)年
筝曲部
1978(昭和53)年
少林寺拳法部
1978(昭和53)年
弓道部
1978(昭和53)年
洋弓部(アーチェリー部)
1978(昭和53)年
バドミントン部
1978(昭和53)年
テニス部
1978(昭和53)年

1979(昭和54)年には、大学から公認されているクラブ数が57、クラブ参加人数が約2,300名(全学生数の約40%)となった。1986(昭和61)年には、クラブ数は63部に増加。2023(令和5)年度は体育会31、文化会23の合計54クラブと25の公認サークルが活動を行っている。

大学課外活動リーダーストレーニング
1981(昭和56)年
クラブ対抗駅伝
1984(昭和59)年

参考1 2023(令和5)年度のクラブ

会名クラブ数クラブ名
体育会 31 アーチェリー部、アメリカンフットボール部、エアロビックチーム、空手道部(松濤館班)、空手道部(和道会班)、器械体操部、弓道部、剣道部、硬式庭球部、硬式野球部、ゴルフ部、サッカー部、柔道部、少林寺拳法部、水泳部、スキー部、ソフトテニス部、卓球部、ダンスドリルチーム、デンマーク体操部、バスケットボール部、女子バスケットボールチーム、バドミントン部、バレーボール部男子、バレーボール部女子、ハンドボール部、ボクシング部、ラグビーフットボール部、男子ラクロス部、女子ラクロス部、陸上競技部
文化会 23 E.S.S.(English Speaking Society)、E.T.C.(English Theatrical Company)、映画研究部、演劇部、学生防災ボランティア隊、合唱団、管弦楽団、ギターアンサンブル部、教育環境研究部、茶道部、写真部、吹奏楽団、生物自然研究部、赤十字奉仕団、箏曲部、T.C.M.S.(Tamagawa Campus Music Society)、フラワーデザイン部、美術部、文芸部、放送研究部、マンガ研究部、ユースホステル部、ユネスコクラブ

参考2 コスモス祭の開催

現在コスモス祭として開催されている大学祭は、当初、大学文化祭という名称であった。初めての大学文化祭の開催は、1963(昭和38)年12月19日・20日・21日。当時、大学は前年に工学部(機械工学科、電子工学科、経営工学科)が開設され、文学部、農学部とあわせて3学部体制となっていた。農学部には収穫祭があり、この大学文化祭は文学部を中心に農学部、工学部の有志が参加して、文化系クラブが主催となって行われた。参加クラブはへき地教育研究会、地理研究会、聖書研究会、赤十字奉仕団、児童文化研究会、海外農業研究会、美術部、演劇研究会、ワンダーフォーゲル部、合唱団、オーケストラ。さらに文学部教育学科2年次生と3年次生、L.L.教室などが参加。この年度の卒業生は140名で、現在と比べるとかなり小規模な大学祭であった。

第1回玉川大学文化祭
1963(昭和38)年
「小原研究」の展示を見学中の小原國芳
1963(昭和38)年

1965(昭和40)年には玉川大学第一次建設完成内祝文化祭として大学文化祭を開催。学校行事として行われたこの大学文化祭を第1回として位置付け、以後現在まで、文化祭は実施されている。大学文化祭は1967(昭和42)年からコスモス祭(Cosmos Fair)と呼ばれるようになった。コスモスとは、ギリシャ語で整美、秩序、調和。またこの言葉は、宇宙の広がりや、秋に咲く可憐なコスモスの花の姿もイメージする。

へき地教育研究部の展示
1966(昭和41)年
開会式でのテープカット
1967(昭和42)年
大体育館での展示発表
1966(昭和41)年
合唱団の展示
1967(昭和42)年
美術部の展示
1967(昭和42)年
児童文学研究部の展示
1977(昭和52)年
茶道部の野点
1995(平成7)年

コスモス祭はクラブの日頃の活動成果を発表する場として11月上旬に開催されていた。1997(平成9)年からは収穫祭と同じ日に実施されるようになり、クラブ活動の展示や発表が中心であったこれまでの内容に、各学部のゼミを中心とした展示が加わり、研究発表の場としての色彩がさらに強まっていった。

関連サイト

参考文献

  • 小原國芳著『小原國芳自伝(1)』(小原國芳全集28) 玉川大学出版部 1977年
  • 小原芳明監修『全人』第842号 玉川大学出版部 2019年
  • 『昭和51年倶楽部紹介』 玉川大学 1976年
  • 玉川大学学生部編『学生便覧』 玉川大学事務局 1963年
  • 『第12回コスモス祭パンフレット』 コスモス祭実行委員会広報部 1976年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年

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