玉川大学・玉川学園Webサイト
IEサポート終了のお知らせ

玉川大学・玉川学園webサイトTOPページリニューアルに伴い、Microsoft 社の Internet Explorer(以下、IE)のサポートを終了いたしました。本学園が運営するサイトをIEで閲覧した場合正しく表示されない恐れがございます。
皆様にはご不便をおかけしますが、別のブラウザを利用しての閲覧をお願いいたします。

玉川豆知識 No.201

約1,500ページにも及ぶ卒業論文執筆のために読んだ本は大八車に積むほど

京都帝国大学の文科大学哲学科に入学した小原國芳は、なんと約1,500ページにも及ぶ卒業論文を執筆。執筆にあたって図書室からたくさんの本を借り、読みあさりました。論文が完成した時には、借りた本は大八車いっぱいになっていました。

玉川学園創立者である小原國芳は理想の教育を学ぶべく、1915(大正4)年に京都帝国大学の文科大学哲学科に入学。その頃の帝国大学は9月入学であり、文学部のことを文科大学と呼んでいました。当時の哲学科には、西田幾多郎や朝永三十郎、波多野精一らそうそうたる顔ぶれが揃っており、小原はここでの教えを基に教育理念の基盤を固めることとなります。そして1918(大正7)年に大学を卒業。

京都帝国大学2年生の頃の小原國芳
(大正5年)
京都帝国大学卒業記念撮影/上段中央が小原國芳
(大正6年)

当時、哲学科には特別に図書室があり、約20,000冊の本を所蔵。しかもその図書室は自由に出入りが可能で、勝手に本を取り出すことができました。小原は卒業論文を執筆するためにその図書室から次々と本を借り、読みあさり、論文が完成した時には借りた本は大八車いっぱいになっていました。そのことが『小原國芳自伝 夢みる人(2)』(玉川大学出版部/1963年発行)でつぎのように述べられています。また、同志社大学の図書館からも多数の本を借りていました。

番人もないところに、自由に入(はい)れて、何等、記帳もせずに、自由に下宿に持って帰れるのです。事、宗教に関係した題目の本を五冊十冊と持って帰りました。卒業論文が済んだ時には、ホントに、大八車一台ビッシリ積んで返しました。
下宿の八畳の間。雨戸を真っ暗にビッシリ詰め切って、下宿のおバさんに相談して、ガラス一枚分だけ切り開けてそこにガラスをはめて、そこからのみ光線を採り入れての読書。いい文句があると名刺型、ハガキ型、いろいろの太さの紙片に書き写して、字引引っぱり引っぱりホンヤクして、各種の箱に入れる。本質論、関係論、理想論、知育論、徳育論、美育論、聖育論、健育論、富育論、更に細かく、感化論、懺悔の教育、社会教育、家庭教育、更に、各宗教の特質、教祖論、理想の宗教……といった小問題を四五十も設けて。全く一年半、まっくろに勉強しました。

完成した卒業論文の題目は「宗教による教育の救済」。小原の言葉に従えば、なんと約1,500ページにも及ぶ論文。300枚の美濃紙大の和綴じが5冊、ふろしきに包んで提出したとのこと。400字詰原稿用紙であると約600枚といったところ。そのことが、前述の『小原國芳自伝 夢みる人(2)』につぎのように記されています。

清書して千五百頁位の大きい物が出来ました。広い美濃版で五巻。高さ一尺位。題目は「宗教による教育の救済」という別題目を附けました。提出した時、教務主任の伊豆野さんが、
「丸で、救世軍の御説教題目みたようだね」
には、全く一本、参りました。著書にした時は、いろいろ考えた揚句、『教育の根本問題としての宗教』と題しました。

卒業論文の第一章の草稿(美濃紙大の和綴じ)

卒業論文を提出すると、担当教員による口頭試問がありました。そのことが、『教育とわが生涯 小原國芳』(玉川大学出版部/1977年発行)につぎのように記載されています。

卒論を提出すると口頭試問がある。
まず波多野が言った。
「えらい書きましたね。要点をつめれば二、三十枚でまとまったでしょう」
“やられた”と思った。簡潔をむねとする波多野の文章からみれば、長ったらしい駄(だ)文に過ぎない。
倫理学の藤井健治郎教授も「君だけの論文を読むのに二十七日もかかったぞ、新聞や雑誌じゃあるまいし」といやみをいわれる。

では、何故、小原は約1,500ページにも及ぶ卒業論文を執筆したのでしょうか?そのことが前述の『教育とわが生涯 小原國芳』でつぎのように述べられています。

大論文を書くについては、いささか茶目っ気もあった。同級の土田杏村、松原寛平の二人と「どうだ、一千枚以上の卒論を書いて先生方をいじめようではないか」。そして三人は約束通り、それぞれ千枚を越す“大論文”を仕あげた。

小原國芳(左)と学友の松原寛平(中央)
(大正6年)

口頭試問で波多野がさらに語ったこと、そして翌年から卒業論文の枚数が制限されることになったことが、同じく『教育とわが生涯 小原國芳』につぎのように書かれています。

しかし、波多野は「よう本を読みましたね。そしてまたよう書きましたね。だれの本に一番力を得ましたか」と、感心した。
三人の“大論文”がきっかけになって、京大哲学科の卒論は翌年から五十枚以内の制限がついた。

1919(大正8)年、小原の卒業論文「宗教による教育の救済」は『教育の根本問題としての宗教』と改題され、集成社から出版されました。1ページ490字で500ページとなる大作です。その後、1950(昭和25)年に大幅に手が加えられて改版され、玉川大学出版部より初版として刊行されました。

『教育の根本問題としての宗教』
『小原國芳全集1 
教育の根本問題としての宗教』

関連サイト

参考文献

  • 小原國芳著『小原國芳全集1 教育の根本問題としての宗教』 玉川大学出版部 1956年
  • 小原國芳著『小原國芳自伝 夢みる人(2)』 玉川大学出版部 1963年
  • 小原國芳著『贈る言葉』 玉川大学出版部 1984年
  • 小原國芳著『敎育の根本問題としての哲學』 イデア書院 1923年
  • 南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』 玉川大学出版部 1977年
  • 石橋哲成著『小原國芳と全人教育 第一部 全人教育提唱前の修行時代』 2021年
  • 白柳弘幸「史料は語る(14)讀書惟古今」(『全人』第887号 玉川大学出版部 2023年に所収)
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史(写真編)』 玉川学園 1980年

シェアする