玉川豆知識 No.36

NHK朝のドラマ『とと姉ちゃん』にも登場した平塚らいてうと玉川学園

NHK朝のドラマ『あさが来た』に続き『とと姉ちゃん』にも登場している平塚らいてう。彼女は、本学刊行の『女性日本』や『全人』に合計10本もの原稿を寄せています。初めて寄稿したのは1933(昭和8)年の9月号で、タイトルは「私の見た「小原先生」」。
何故、平塚らいてうが『女性日本』や『全人』に寄稿するようになったのでしょうか。

1.平塚らいてう(平塚雷鳥)

平塚らいてうは、1886(明治19)年に東京で生まれ、1971(昭和46)年に85年の生涯を閉じました。婦人運動の先駆者で、女性解放運動家、思想家、評論家、作家である平塚らいてうは、時期によって、平塚雷鳥、本名の平塚明(はる)、号である「らいてう」を使った「平塚明子(らいてう)」という名前で活動したりすることもありました。
(以降「雷鳥」と表記)

雷鳥は、1911(明治44)年、生田長江の勧めで女流文芸誌『青鞜』を発刊。ここにわが国初の女性雑誌が誕生しました。雷鳥が書いた創刊の辞「元始、女性は太陽であった・・・」は、女性自身による女性解放宣言として話題になりました。また、創刊号の表紙絵を描いたのは、のちに高村光太郎と結婚した長沼智恵子でした。そして、巻頭には与謝野晶子の詩が掲載されました。

1914(大正3)年、雷鳥は5歳年下の青年画家である奥村博史と別姓のままあえて家族制度の下での婚姻手続を踏まない共同生活を始めました。やがて、雷鳥は、男の子、女の子の2児の母親となりました。

「若いつばめ」という言葉が生まれたり、「新しい女」という言葉が流行ったのは、雷鳥の言動に由来すると言われています。

1918(大正7)年から翌年にかけて、「女権主義」を主張する与謝野晶子らと母性保護論争を行った雷鳥は「母性主義」を唱え、1920(大正9)年には、市川房枝らと新婦人協会を設立し、「母性の保護」や「婦人参政権」などを唱えました。

2.雷鳥と小原國芳

雷鳥と國芳の交流の始まりと思われる一文が『小原國芳全集』(29巻)の「同情したい入学生」の項に次のように記されています。

平塚らいてふさんも、若い博史君との関係を口さがなき世間が問題にした頃です。
相談に来て下さいました。無条件で引き受けました。御生活も苦しそうでした。絵のスキな博史氏を(成城の)美術の教師にして上げました。教師の子は無月謝にしてありましたから、二人のお子は卒業までフリーパス。今、敦史君はワセダの教授。工博。博史さんも中々いい人でした。

何故、雷鳥は相談相手に國芳を選んだのでしょうか。実際のところは不明ですが、いくつか考えられることがあります。

國芳の数ある著作には『母のための教育学』(1925(大正14)年)など、女性問題に関する本も数冊含まれています。そのうちの一冊『婦人問題と教育』(1920(大正9)年)の序論に次のような記述があります。

男女の別は性の別であって、本然に有する生の本能の質、力、および尊厳の差ではない。男子は男子、女子は女子、その立場使命は無論ちがう。されど価値の差があるのではない、男だからえらい、女だからえらくないという理由はドコにもない。掛替の出来ない貴い物を御互いが有しているのである。女ばかりの世界が成立し得ないと同様に男子ばかりの世界も成立し得ない。

大正デモクラシーと言われる時期でしたが、まだ世間では男尊女卑の考えは色濃く残されていました。こうした時に、國芳が女性問題について述べていることに注目。また、当時の婦人雑誌は、俗悪卑猥な記事を満載して大衆の悪趣味に媚び、到底、良家庭なぞに置かれないものが余りに多かったため、清楚純真で、趣味と教養を高めると共に、現代女性の歩むべき道をハッキリと指示した雑誌が要望されていました。雷鳥が寄稿した『女性日本』は、その要望に応えて刊行されたのでした。そうした國芳の思想に雷鳥が共鳴したと予想できます。

雷鳥は女性運動家としてのエレン・ケイに関心があり、その著作を『青鞜』で紹介しています。その一方、教育学者としてのエレン・ケイは『児童の世紀』を著し、わが国での、大正期の児童中心主義の立場にたった新教育運動に大きな影響を与えました。エレン・ケイの著作や思想を通して、雷鳥と國芳が結び付けられていったのではないかとも考えられます。

当時、雷鳥は結婚という形式をとらず男女別姓で共同生活を行っていることで、世間から無責任なうわさや批判を受けていました。そのため、子供たちの教育を國芳に託したいと考え、國芳を訪ねたのではないでしょうか。その願いに対して國芳は応え、受け入れたのだと思います。その結果、子供たちは、成城学園、玉川学園で学ぶこととなりました。

参考

平塚雷鳥 『女性日本』『全人』への寄稿原稿
  雑誌名発行年月タイトル
1女性日本 1933(昭和 8)年 9月 私の見た「小原先生」
2 1934(昭和 9)年 5月 寧ろよろごばしき結婚解消
3 1935(昭和10)年 4月 母子心中防止策樹立運動
4 1936(昭和11)年 9月 女性と読書
5 1936(昭和11)年12月 最初の記憶(炉辺物語)
6 1937(昭和12)年 7月 女の感想
7 1938(昭和13)年 5月 娘の結婚について
8 1939(昭和14)年 4月 今議会と女性
9全人 1949(昭和24)年 9月 この頃の婦人の傾向について
10 1956(昭和31)年 4月 ほんとうにご苦労さま
  • 國芳の古希祝い特集号となった『全人』に寄せた「ほんとうにご苦労さま」の本人直筆の原稿は、玉川大学教育博物館に所蔵されています。
雷鳥直筆の原稿

「私の見た「小原先生」」
先生はいつも全生命を燃焼して生きていられます。
成城といい、玉川といい、みんな先生の生命の燃焼物に過ぎません。
先生は活物です。死物ではありません。
先生の生活は休むときなき生命の創造です、展開です、躍進です。冷たい理智に支配されている影の人ではないのです。次々と夢を孕み、夢を生み、その行くところを知らないあの強い生命の、意慾の推進力、そこに先生の生活の本体を見ます。

参考文献

小原國芳編『女性日本』16号 玉川大学出版部 1933
小原國芳編『女性日本』22号 玉川大学出版部 1934
小原國芳著『小原國芳全集』29巻 玉川大学出版部 1963