玉川豆知識 No.37

大岡昇平と小原國芳

大岡昇平と玉川学園創立者小原國芳との出会いは、1925(大正14)年12月、大岡が、小原が当時教鞭をとっていた成城第二中学校の4年次に編入したことによります。その後、大岡は七年制成城高等学校高等科に進学し、1929(昭和4)年に第1回生として成城高等学校を卒業。その間、大岡は小原が担当した「心理学」や「修身」の授業を受講しました。

『教育とわが生涯 小原國芳』(南日本新聞社編)に次のような記述があります。

タイトル「松組の偉材」

成城高校の第一回生、つまり松組の人に作家の大岡昇平がいる。中学は青山学院で、高校だけ成城で学んだ。いわゆるはえ抜きの“成城っ子”ではないが、『全人』(玉川の学園誌)の昭和三十一年四月号に「感謝」の一文を寄せて、成城時代の青春をしのんでいる。
大岡は成城から京大仏文に入るわけだが、当時、成城にはフランス語科はなかった。専門学科がないにもかかわらず、どうして仏文へ進学できたか。進学できたのは全く「小原先生」のおかげ、という意味で、小文の題は「感謝」となっている。

大岡と小原との関係については、後年、大岡が『全人』に寄稿した上述の「感謝」の文章の中に次のように記述されています。

『全人』第80号(1956(昭和31)年4月号)小原國芳古希記念特集号

タイトル「感謝」

先生の教育には、よその学校に見られないおっとりとした気分があって、知らず知らずのうちに、僕も感染していたことは、大学へ進み、さらに世間に出て、ほかの種類の学歴を経て来た人間と接触してみると、わが身と比べて、わかるのである。昭和の初め秀才教育が一般の風潮だった頃だが、これは当然人に勝とうという習慣を学生の心に植えつける。
人に勝つのが、所謂成功の近道には相違ないが、周囲との調和を失って、長い間にはいつか蹉跌が来るのが常である。
よし蹉跌が急に来なくとも、何ともいえない潤いのない人間になって、こんどはその子供がひねくれてしまう例を、僕は知っている。自分はよかったが、子供で苦労しなければならない破目になるわけである。
僕が今文士なんて変な商売をしながら、親父も子供も一応呑気にやっていられるのも、遡れば小原先生のお蔭ということになるかも知れない。
  (略)
生徒の勝手にさせる先生の方針は、死ぬまで僕の上に作用しているような、被害妄想みたいなものに囚われたりするが、実は妄想でも錯覚でもなく、これが本当の教育というものの成果かも知れない。
先生、有難うございました。

また、大岡は『全人教育』第401号(1981(昭和56)年12月号)に、「恩師 小原先生」というタイトルで寄稿しています。

月日の経つのは早いもので、小原先生が亡くなられてから四年になるという。最後にお目にかかったのは、先生が勲二等をお貰いになり、われわれ成城松組が相寄り、ささやかな祝宴の席をもうけた時だった。少しもお変りにならずお元気で、さきごろ旅行されたハワイや隠岐島の話をされていた。
 (略)
よく考えてみると、こうして自由に自分の道を選び取るそれを教えて下さったのは、小原先生の全人教育だった、と思い当るのである。私は勝手に勉強していたが、自分の才の足りないところは知っているから、そこは一所懸命に勉強したつもりである。そういう気持ちに導いて下さったのは、小原先生の寛容のお蔭だった、と思うのである。
その上、最近、小原先生の次女純子さんの夫君、学園の岡田陽先生のお父さん、もとの名古屋の東海軍司令官岡田資中将の事蹟を某紙に連載している。自然、玉川学園に行く機会が増えた。先生が狭い成城をやめられて、ここに新天地を求められたのはほんとうによかった、と思う。成城松組の頃の、自由な精神が生きているのを感じる。自分の選択で、生涯教育をやって来たルーツはここだと思う。
小原先生ほんとうにありがとうございました。

その他、『全人教育』第145号(1961(昭和36)年9月号)には、「将来のために」という大岡の小文が掲載されています。「漢字とカナ」について書かれたものです。

小原國芳著『小原國芳全集29 小原國芳自伝-夢みる人(2)』には、小原の授業を受けた大岡の様子が記述されています。

青山学院からは大岡昇平君が。これは高校一年生からでしたが、お修身の時間なぞ、よく私のまん前に坐る子でした。恋愛論でも出ると、ニャーッと笑うので気になったものです。よく、「おい君。ワキの方に席をかえろ。君がマン前に来ると話しにくいよ」と。何んと、今のあの大文豪。しかも、キビキビした文学評論家の大岡君になろうとは至らない伯楽の私には分かりませんでした。その頃、泰西文学の一流ものはほとんど読破して居たことを今、思い出すと冷汗が出ることです。

大岡の著作の中にも小原や玉川学園のことが書かれています。
例えば、『ながい旅』には、岡田中将の遺族を訪ねた話が出てきます。そこでは岡田中将の息子である岡田陽や、陽と結婚した小原の次女である純子のこと、純子のことは幼少の頃から知っていたことなどが語られています。
『少年 大岡昇平 ある自伝の試み』には、小原が成城第二中学校を創り、それまでの軍国主義的な画一教育とは異なる「全人教育」を始めたこと、それによって大岡がクラスの中で目立つ存在になったことなどが記述されています。

多感な高校時代に小原と巡り合った大岡、二人は恩師と生徒の関係で繋がっていたのです。

旧制成城高等学校第一回卒業生たちと一緒に
(前列左より4人目:小原國芳、後列右より2人目:大岡昇平)

参考

大岡昇平は小説家、文芸評論家、フランス文学の翻訳家・研究者として活躍しました。
1950(昭和25)年に発表した恋愛小説『武蔵野夫人』がベストセラーとなり、一躍注目されるようになりました。1978(昭和53)年に刊行された『事件』は、映画やテレビドラマにもなり話題となりました。

<主な経歴>
1909(明治42)年 3月6日に東京市牛込区で生まれた。
1919(大正 8)年 前年に創刊された童話雑誌『赤い鳥』に童謡を投稿し入選。
1921(大正10)年 青山学院中学部に入学。
1925(大正14)年 12月に成城第二中学校4年に編入学。翌年、成城中学校が七年制の成城高等学校になったため高等科に進学。
1927(昭和 2)年 2年生の2学期(9月)よりアテネ・フランセの夜学に通いフランス語を学習。
1929(昭和 4)年 成城高等学校を卒業し、京都帝国大学文学部に入学、仏文学を専攻。
中原中也たちと同人誌「白痴群」を創刊。
1932(昭和 7)年 京都帝国大学を卒業。
1934(昭和 9)年 2月に国民新聞社に入社。(1935年2月退社)
1938(昭和13)年 10月に帝国酸素に翻訳係として入社。スタンダール研究家として知られる。
1943(昭和18)年 11月に川崎重工業に入社。
1944(昭和19)年 3月に召集され入隊、7月にフィリピンへ。
1945(昭和20)年 1月アメリカ軍の捕虜となりレイテ島の俘虜病院に収容される。12月に帰国。
1949(昭和24)年 明治大学文学部に仏文学の講師として就任。
1988(昭和63)年 12月25日に脳梗塞のため死去。満79歳。
<主な受賞作品>
1949(昭和24)年 『俘虜記』横光利一賞
1952(昭和27)年 「野火』読売文学賞
1961(昭和36)年 『花影』毎日出版文化賞、新潮社文学賞
1972(昭和47)年 『レイテ戦記』毎日芸術賞
1974(昭和49)年 『中原中也』野間文芸賞
1976(昭和51)年 『全集』刊行などで朝日文化賞
1978(昭和53)年 『事件』日本推理作家協会賞
1989(平成元)年 『小説家夏目漱石』読売文学賞
参考図書
  • 南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』 玉川大学出版部 1977年
  • 『全人』第80号 玉川大学出版部 1956年
  • 『全人教育』第145号 玉川大学出版部 1961年
  • 『全人教育』第401号 玉川大学出版部 1981年
  • 小原國芳著『小原國芳全集29 小原國芳自伝-夢みる人(2)』 玉川大学出版部 1963年
  • 大岡昇平著『ながい旅』 新潮社 1982年
  • 大岡昇平著『少年 大岡昇平 ある自伝の試み』 筑摩書房 1976年