科学するTAMAGAWA 英語教育のあるべき姿を求めて~言語が果たす役割から考える~

2015.05.13

グローバル化の時代における
英語教育のあり方とは?
玉川大学の英語教育、英語教員養成を
牽引してきた高橋貞雄名誉教授が
40年の経験をもとに考察します。

『全人』2015年3月号 No.792掲載
文学が花盛り――私は玉川大学文学部英米文学科に学びましたが、当時、英語教育はマイナーな存在でした。英文学でなく語学を専攻する学生は学科の異端児ですらありました。卒業は1972年。言語学者ノーム・チョムスキーの「変形文法」が世界を席巻していて、難しくても読破は当然という雰囲気。卒業研究は「補文構造」をテーマに取り組みました。
私は教職課程を履修していたので4年次には教育実習も行い、実習先の高等部では「リピート・アフター・ミー」と生徒を前に繰り返していました。当時の英語教育は暗記が中心。パターンを覚えればいつか英語ができるようになるという時代だったのです。
文学研究科に進学後は「意味論」に惹かれ、さらに英語に関するセミナーがあればできる限り参加し、英語研究者と交流する武者修行にも。そのときに得た人脈はのちに生きました。

コミュニケーション能力とは

やがて比喩(メタファー)の研究にも目覚めたのは、英語の表現の多くがメタファーだからです。「I’m up today.(今日は気分が良い)」、「 I’m down today.(今日は落ち込んでいる)」など、アップとダウンという比喩でコミュニケーションができる。これは英語に限らず、日本語でも無数の比喩が使われています。「Your opinion is empty.(あなたの意見は空っぽだ)」と言った場合、日本語も同じ意味で通じるでしょう。言語における比喩の重要性が分かります。
とはいえ最近の日本語では比喩があまり使われなくなりました。学生と話していても比喩が通じない。日本語でも英語でも、比喩を用いて話すと本来わかりやすいはずで、私など、比喩を使わないとコミュニケーションができないくらい重要だと思うのですが。

1970年代になると、言語は文法だけでなく「誰がどういう場面で誰に言うのかが重要だ」という認識が広まり、「伝達能力」「運用能力」というキーワードが出てきました。より現代的な言葉に置き換えると「コミュニケーション能力」です。英語教育ではこの考え方が現在も続いています。
文学研究科を修了し、助手を経た後、英国のレディング大学大学院で学びました。そこでは日本ではまだ認知度の低かった応用言語学を専攻しました。英国の言語学は伝統的に言語の機能を重視しています。簡単に言うと、「コミュニケーションは行為だ」ということです。このことは、現在の日本の英語教育にも大きな影響を与えています。例えば学習指導要領に「言語の働き」という項目があるのは、この英国の考え方が根幹にあると思います。
同じ頃、盛んだったのは「談話分析」です。先生と生徒のやりとりの分析など、現在では一般的になりましたが、当時は画期的だったのです。学習者の誤りを分析して、「なぜ間違うのか」を研究する動きも始まっていました。母語のせいで誤りが起こると思われていましたが、研究が進むと、母語に関係なく日本人でも中国人でも英語を学習していくと同じような誤りをすることがわかってきました。これが現在大きな進歩を遂げている「言語習得研究」の原点です。

1600万人の教え子

英国留学から帰国後は、大学英語教育学会の活動や文部科学省の検定教科書の編集が重要な部分を占めるようになりました。

玉川大学で教え始めてから40年になります。教職課程の英語科指導法は約30年、教えてきました。毎年の受講者は30人ほどなので、合計で約900人です。
私が携わった英語教科書は『NEWCROWN』。編集に参加してから20年になります。この間、英語の指導法についても教育観についても大いに鍛えられました。教科書は約4年に1度、改訂されます。教科書を使う子どもたちにも、私自身が授業をしているつもりで取り組んでいます。粗い計算ですが、約1,600万人の子どもたちが私の教え子です。
学習指導要領は、1989年に英語教育の目標に「コミュニケーション能力」を初めて掲げました。以後、4半世紀にわたって、現場の英語教員はこのテーマに対してどう教えるべきか試行錯誤していますし、私もともに格闘している気持ちです。そもそも英語教育は何のためにあるのでしょうか? この問いには悶々としてきました。教員の側からは「教科があるから教えている」という答え方があるかもしれません。では教科がないなら英語を学ぶ機会がなくてよいのか?
中学・高校で入試以外の目標で英語授業を活性化できたらどんなに素晴らしいものになるでしょう。

より良い人間を育てるために

英語を学ぶ理由に「グローバル化」が挙げられます。しかしグローバル化以外の理由も考えてみたいのです。言語にはいくつかの機能があります。言葉を交わして人間関係を築くための「社会的機能」。情報を伝える「伝達機能」。考えたり、理解したりするための「思考・認知機能」などです。
昨今の英語教員は2番目の伝達機能ばかりを教えているように見えます。伝達機能は重要ですが、世界の多様性を理解するときに必要な思考・認知機能についても、国語教育などとともに、英語教育も責任を持つべきではないでしょうか? これは言語教育のエッセンスと言っても良いでしょう。例えば「誰がアメリカを発見しましたか」と英語で中学生に尋ねると、「コロンブス」と生徒が応じる。間違いではないけれども、先住民がいたではないか、と考える姿勢を英語教育の場で教えられるわけです。英語を通じ、物事を反対から見る目を養う。これは、玉川の教育12信条にある「反対の合一」にも通じると思います。
英語教育においては、「文法か会話か」と長らく二項対立で語られてきました。しかし私はNot only A but also Bの発想です。どちらも大切にするべきだと考えています。言語はAccuracy(文法的に正確であること)も、Fluency(流暢であること)も必要なのです。
そして「どう言うか」は大事ですが、「何を言うか」がなくて良いわけがない。つまり中身も重要なのです。両方を育てることが言語教育には欠かせません。
また、何を勉強するかはもちろんのこと、どう勉強するかも重要なテーマ。教員の観点から言えば、教えることに加え、学び方を教えたり、「動機づけ」を与えたりすることが、近年の課題です。子どもは、動機さえあれば自然に学ぶもので、教員にはそれを喚起する力が求められています。子どもたちが持つNature(生来のもの)とNurture(育むこと)が両方あって、言語は習得されるからです。
英語の教員は何のために教えるのかと言えば、「より良い大人に、より豊かな考え方ができる大人になってもらうため」に尽きます。それは単に文法を知り、しっかり英語で話せるというだけのことではありません。英語という言語を使い、何かを伝えられる人間を育てたい。中身のある英語教育を実践できる教員を育てる―これこそ玉川大学に新設される英語教育学科が目指しているものなのです。