波多野精一

2014.03.18

小原國芳の師、玉川の丘へ

波多野精一博士

玉川大学ではこれまでにも数多くの優れた講師陣が教壇に立ってきた。特に開学当初は教育心理学の田中寛一や、仏教哲学の稲津紀三など、各分野のオーソリティが名を連ねた。中には後に日本のロケット工学の父と呼ばれるようになる、若き日の糸川英夫もいた。この優れた陣容は、開学に向けて小原國芳が奔走したからに他ならない。そしてそうした講師陣の中でも、小原自身が是非にと迎え入れたのが、京都帝国大学時代の恩師でもある波多野精一博士であった。

波多野精一は1877(明治10)年、長野県に生まれる。1896(明治29)年に東京帝国大学文科大学哲学科に入学。さらに大学院にも進学し、近世哲学についての研鑽を積む。この時期に波多野を指導したのは、夏目漱石も学んだといわれるラファエル・フォン・ケーベルである。波多野の勉強ぶりにケーベルは感服し、「おれの弟子は波多野一人だ。外にはニヒツ(無い)」と語ったという。同時に東京専門学校(現・早稲田大学)で講師として「西洋哲学史」を指導。この時期に書かれた『西洋哲学史要』は、以後半世紀以上にわたって、日本における西洋哲学の重要なテキストとなった。
とにかく、早熟な天才であった。この『西洋哲学史要』をまとめたのが24歳の時。そして大学院での論文のテーマは「スピノザ研究」。ドイツ語で書かれたこの論文は大学院内に評価できる講師がおらず、波多野はドイツに送付する。結果としてドイツ国内において高い評価を受け雑誌にも掲載されたことから、東京帝国大学大学院での博士号を取得するのである。そして1917(大正6)年に京都帝国大学の文学部宗教学講座の担当に。この京都で、波多野と小原國芳は師弟として出会うのである。波多野が京都へ赴任した当時、小原は3年生。卒業論文に着手する時期であった。そんな小原の卒業論文の審査委員の一人となったのが波多野だった。ちなみにこの時、小原は「宗教による教育の救済」という題目で1500枚に及ぶ卒業論文を執筆した。この卒業論文は後に加筆・修正されて『教育の根本問題としての宗教』というタイトルのもと玉川大学出版部より刊行された。波多野は西田幾多郎らと共に後に「京都学派」として知られるようになる。キリスト教を信仰し、自身の宗教体験を掘り下げて思索した波多野の思想は、極めて独自性の高いものであった。

波多野文庫

その後、約20年にわたって著作の発表を控えていた波多野精一であったが、1935(昭和10)年に『宗教哲学』を上梓。執筆に7年を要した力作であった。そしてこれは後に刊行する『宗教哲学序論』『時と永遠』と併せて三部作と呼ばれ、波多野の代表作となる。1937(昭和12)年には京都帝国大学を定年で退官し、名誉教授の称号も授与された。夫人の逝去や息子夫婦との東京での同居生活を経て、1945(昭和20)年には岩手県千厩へと疎開する。この年、波多野は68歳。そんな波多野の下へ一通の手紙が届く。それは小原國芳からの「玉川大学で教鞭を執ってほしい」という依頼であった。その依頼は一通ではなく矢のように波多野の下へと送られ、その熱意にほだされた波多野は再度教壇に立つことを決意する。1947(昭和22)年のことであった。この波多野の決意について、神学者である松村克己は以下のように述べている。「波多野先生が玉川学園に岩手の疎開先から、その招きに応じて学長として移られたのは、どういうお心からであったろうか。こうだと断定することは勿論できないが、私には何かわかるような気がするのである。(中略)凡そ便宜的な考え方や生き方を微塵もしようとしなかった先生が、そういう点から玉川行きを決意されたとは考えられない。とすればそれは何であったかといま、改めて考えてみるのである。それはおそらく小原園長の心と一脈通ずるものがあってと考える他はない。辿った道は異なるにしても、生涯を一貫して持ち続けられて来た一つの仕事への情熱! 毀誉褒貶を越えての一筋の道への没頭!自由を愛し、自由のために、自由に生きて来た先生は、余生を託すべき場所として、自由教育のために一世代を戦い抜いて来た玉川を見、小原園長の心に応えようとされたのではなかったろうか」。玉川大学で波多野は「西洋哲学史」「宗教哲学」「ギリシャ語」などを担当した。

ただ、残念ながら波多野精一の玉川の丘での日々は長くは続かなかった。玉川大学に赴任した直後の1948(昭和23)年、波多野は直腸潰瘍の手術で二ヶ月ほど入院。その後も体調が優れず、自宅で療養することが多くなった。そうした中、1949(昭和24)年には玉川大学の学長にも就任する。これも小原國芳のたっての願いだった。波多野はこうした小原の想いに応えたかったに違いない。波多野は当時の担当医だった東福寺智に教育に対する情熱を語ると同時に「小原園長先生を二十年以上生かして呉れないかね。いや、生きてもらわなければならない。玉川大学は、その時立派な大学になるから」と、自身のことはそっちのけで常々語っていたという。そして翌年の1950(昭和25)年1月17日、惜しまれつつ72歳で逝去。直腸癌であった。波多野の葬儀は玉川学園の学園葬として執り行われた。死後も波多野と玉川学園の結びつきは強く、私物などが遺族から玉川学園に寄贈された。特に膨大な量の書物は波多野文庫として、玉川大学図書館内に設置されている。現在、玉川学園の丘には波多野精一の像が飾られている。これは波多野の死から10年の後、学生たちが作り上げたものだ。波多野が小原とともに築き上げた玉川の教育は、この丘で確実に実を結んでいる。


参考文献
小原國芳編『全人教育』No.17 玉川教育研究所 1947
小原國芳編『全人』第12号 玉川教育研究所 1950
玉川学園編『玉川教育: 玉川学園三十年』 玉川学園 1960
波多野精一『西洋哲学史要』 玉川大学出版部 1977