玉川塾専門部

2014.03.27

戦時下で誕生した、学園教育の仕上げの部分

専門部入学式 1941(昭和16)年4月

1929(昭和4)年に(旧制)玉川中学校、玉川学園小学校、幼稚園で発足した玉川学園。翌年には(旧制)玉川高等女学校も開校し、多くの生徒が玉川の丘で小原國芳の薫陶を受けることとなる。そうした中で、教育の次の段階をめざそうという機運が徐々に高まっていった。それが、玉川塾と呼ばれる専門部の設立である。ただ、この専門部の設置認可から開校に至るまでの過程は、日中戦争・太平洋戦争とも重なり、当時の資料が極端に少ない。以下の内容は、戦前の本学園機関誌『教育日本』や『全人』の生活記録や『玉川学園五十年史』の記述から構成していく。

玉川塾専門部に対して、東京府より正式に認可が下りたのは1939(昭和14)年3月のことだったが、当時の学生の手記を読むとその構想は1932(昭和7)年頃から練られていたようで、1935(昭和10)年にはかなり明確な教育組織・体系が出来上がっていた。
当時発行された「玉川学園概況」には、その設立趣旨を以下のように謳っている。
「学園教育の仕上げの部門として、教育目標の精神を活かしつつ、更に、将来社会の第一線に立って、その幹部、指導者として活躍するのに恥しからぬ深い学識を与え、尚労作的体験を重んずることに依って、この学識を真に心身を以って我が物とし、同時に自ら汗して労作する間に自ら健全なる身体と、不撓不屈の精神を鍛え上げんとする方針の下に進んでいます。」
このように専門部は玉川学園における最終的な教育の場と位置づけられ、社会の指導者を養成すると同時に、当時の玉川学園の生徒指導者としても期待されていた。中学校卒業を入学資格とし、商科、文科、工科、農科、女子高等部が設置された。修業年限は3年で、女子高等部は2年だった。

専門部卒業式 1941(昭和16)年3月

戦局が日々激化する中、専門部の学生は自身の学習と同時に中学生などへの指導、そして畑を耕したり土地を開墾するといった労作にも力を注いだ。まさに開拓期玉川の先頭に立とうという意欲が学生に担われていた。玉川を守り抜き、発展させようという姿勢は、労作実践を通して確固たるものに育っていったといえる。
さらに小原國芳によって1942(昭和17)年に興亜工業大学(現・千葉工業大学)が設立されると、そちらへ進学する者も出てきた。やがて戦時体制へと移行し、修業年限の短縮、動員、応召などが相次いた。1944(昭和19)年に興亜工業大学が玉川の丘から離れ、その後申請した玉川工業専門学校が認可となる。終戦の約半年前の、1945(昭和20)年3月のことだった。

1947(昭和22)年3月に、最後の専門部卒業生が出ているが、工業専門学校に移籍する者、さらにはこの年に設立された旧制玉川大学予科に進学する者もあり、専門部はその役目を終え、廃校となった。

実質的な活動期間は十年弱と決して長くはなかったが、玉川学園専門部は戦時という教育が困難な時代にあって、社会が求める「力」を育成することに注力した。


参考文献
『教育日本』 玉川学園出版部
『全人』 玉川学園出版部
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980