玉川豆知識 No.29

童謡作家北原白秋と玉川学園の意外な接点

  青雲はれて そよぐこずえ
  見よ朝だ 風が笑う
  フレフレ玉川
  飛べよ走れ われら
  風と走れ 玉川フレフレ

この歌詞と共に、秋の青空の下で行われた運動会(現在の体育祭)を思い返す玉川学園の卒業生は多いのではないでしょうか。この歌の作曲を担当したのは玉川学園校歌や「どじょっこ ふなっこ」で知られる岡本敏明。そして作詞は、童謡作家の北原白秋。初め「成城学園運動会歌」として作詞されたこの歌は、白秋の配慮で、後には「玉川学園運動会歌」としても歌われることになりました。そして、成城学園では「フレフレ成城」、玉川学園では「フレフレ玉川」と歌われました。1933(昭和8)年10月15日、玉川学園の運動会の観覧席では、白秋が父兄として「フレフレ玉川」の歌詞でこの歌を聴きました。

北原白秋といえば明治から昭和にかけて活躍し、「からたちの花」や「ペチカ」などで知られる詩人・歌人・童謡作家です。その一方で白秋は、数多くの校歌や応援歌の作詞も手がけていました。また彼が活躍した時代は、大正自由教育運動が勃興した時期でもありました。それまでの教師中心の注入主義的な旧教育から、子供の関心や感動を大切にする教育へ。当時、そうした理想を掲げて設立された学校は数多く、玉川学園もその一つといえます。同じような動きは文芸の分野でも顕著でした。象徴的な出来事が、日本における児童文化運動の父とされる鈴木三重吉による児童文芸誌『赤い鳥』の創刊。1918(大正7)年のことです。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』『杜子春』や有島武郎の『一房の葡萄』、新美南吉の『ごん狐』などの文学作品も、この『赤い鳥』に掲載されて世に出ました。そしてこれら文学作品と同様に、社会から大きな反響を呼んだのが童謡だったのです。当時の唱歌や説話は政府によって作られたものであり、そこからは子供の素直な心や芸術的な香気は感じられませんでした。そうした中、赤い鳥で「からたちの花」を発表したのが北原白秋でした。白秋らが発表した童謡の数々は大きな反響を呼び、音楽運動としての様相を見せるようになり、一大潮流となっていきました。現在、私たちが童謡と認識している曲の数々は、この時期に作られたものが少なくなく、まさに童謡の黄金期といえました。北原白秋は、その中心人物の一人でした。ちなみに日本童謡協会が1984(昭和59)年に7月1日を「童謡の日」と定めましたが、これは赤い鳥がこの日に創刊されたことによります。

北原白秋と玉川学園の結びつきは強く、小原國芳の教育哲学に共鳴した白秋は、当時國芳が校長をしていた成城学園に2人の子供を託しました。1933(昭和8)年、國芳が成城学園の校長を辞して、玉川学園の教育に専念するようになると、2人の子供を玉川学園に転校させました。理想を掲げて新たな教育の場を作り上げた國芳。それまでの唱歌にはない感性豊かな童謡を発表するなど、文芸の分野で新たな流れを作り出した白秋。この当時、國芳は「出版は私学経営に不可欠」と考え、『児童百科大辞典』や教育書を発行していましたが、さらに女性向けの修養雑誌として1932(昭和7)年に『女性日本』を発刊。そして國芳は白秋に歌詞の制作を依頼しました。創刊号の巻頭には、白秋の手による「女性日本の歌」が掲載されています。この詩に曲を付けたのは「城ヶ島の雨」で知られる梁田貞。以後、白秋は『女性日本』を創作の場として数多くの詩や随筆などを発表していくことになります。他にも白秋は歌人として、國芳の活動を題材に数々の和歌を残しています。

なお、「運動会歌」は、1933(昭和8)年、小原國芳が成城学園の校長を辞した後は、ほとんど玉川学園だけで歌われるようになり現在に至っています。

和歌や童謡の作家として知られる北原白秋。校歌や応援歌の創作はそのような彼の創作活動の一面であり、それほど知られてはいません。玉川学園の子供たちも、彼の作品とは気付かず歌っていることでしょう。けれども秋になると玉川の丘に毎年響くそのメロディ、その歌詞は、子供たちが大人になっても胸に刻まれているに違いありません。

参考文献
小原國芳編『女性日本』創刊号 玉川学園出版部 1932
小原國芳編『女性日本』第15号 玉川学園出版部 1933
小原國芳編『学園日記』第52号 玉川学園出版部 1933