玉川豆知識 No.63

デンマークの童話作家アンデルセンと玉川学園

『マッチ売りの少女』『人魚姫』『みにくいアヒルの子』『裸の王様』『赤い靴』『親指姫』など150ほどの童話を世に送り出しているアンデルセン。玉川学園のキャンパス内にある4人の子供たちに語りかけるアンデルセンの座像は、子供たちに大変親しまれています。

1.アンデルセン生誕150周年記念祭

多数のデンマークのお客さま

1955(昭和30)年4月3日、玉川学園にてアンデルセン生誕150周年記念祭を開催。礼拝堂でのアンデルセン劇や合唱、日本舞踊の観賞、英語による『アンデルセンの一生』や『錫の兵隊』という映画の鑑賞をはじめ、音楽や美術等の授業参観、デンマーク体操の発表やデンマークに関する自由研究の見学などが行われました。例えば小学部の美術教室では、アンデルセンに因んだガラス絵、肖像、影絵や錫の兵隊の紙細工などを子供たちが制作していました。

アンデルセンに扮した大学生に花束を捧げるデンマークの少女
秩父宮妃殿下(左)と國芳

当日は雨の中、秩父宮勢津子妃殿下をはじめ、ブック領事ご夫妻、クルーゼ公使ご夫妻のほか、大勢のデンマークの人たちが参観に来られました。秩父宮勢津子妃殿下のご案内役は、玉川学園創立者小原國芳と故岡田資中将夫人(この日のアンデルセン劇を演出した岡田陽中学部長(当時)のお母さま)でした。実は、岡田資中将は元秩父宮殿下つきの侍従武官でありました。

秩父宮妃殿下をご案内する國芳
秩父宮妃殿下をお迎えする故岡田中将一家
礼拝堂の舞台にて、秩父宮妃殿下(中央)とブック領事夫妻(左)、クルーゼ公使夫妻(右)
アンデルセン劇を観劇される秩父宮妃殿下とクルーゼ公使夫妻はじめデンマークの方々
小学部の美術教室にて
子どもたちに質問をする秩父宮妃殿下
デンマーク体操のデモンストレーション
小学部の音楽の授業をご参観
初代「アンデルセンと子どもたち」の像

アンデルセン生誕150周年記念祭が玉川学園で開催された後、生誕150周年記念として「アンデルセンと子どもたち」の像を制作することとなりました。これは國芳の発案によるものでした。制作は本学の美術部の学生が担当。その学生によれば、アンデルセンの顔の向きに苦労したそうです。

2.アンデルセン博物館長のラーセン氏を迎えて

デンマークよりの文化使節として外務省より招聘されて来日することとなったアンデルセン博物館長のスベン・ラーセン氏は、日本の代表的な学校を3つほど見学したいと要望。東京大学と早稲田大学演劇博物館、そして玉川学園が訪問先として選ばれました。そして、1962(昭和37)年4月10日、桜が美しい玉川の丘に来園。NHKテレビのほか新聞社などが取材に訪れ、玉川学園訪問の様子がテレビ放映されました。

完成も近い像の前で

ラーセン氏を礼拝堂にお迎えし、高等部2,3年生と小学部、中学部の代表者たちがデンマーク国歌を合唱。ラーセン氏の挨拶の後、小学部生によるデンマークやアンデルセンに関係のある曲の合唱、合奏、そして舞踊劇「みにくいアヒルの子」「マッチ売りの少女」「錫の兵隊」の上演。さらに舞踊部の「さくら、さくら」「通りゃんせ」「わらべ歌」「ずいずいずっころばし」といった日本色豊かな舞踊とつづき、最後に高等部生の「ハレルヤ」「第九シンフォニー」「ソーラン節」の合唱で歓迎会を締めくくりました。

その後、ラーセン氏は学生たちが制作中の「アンデルセンと子どもたち」の像を見学され、顔がよく似ているのに驚いていました。國芳の求めに応じて、2カ所ほど修正箇所を指摘されて、陶芸、染色、デッサン、織物の現場に移動されました。午後からは温室、養魚地、美術教室、音楽教室など小学部を参観。そして、「アンデルセンと子どもたち」の像を据える小学部前のヒマラヤ杉の前に記念植樹を行いました。最後に体育館にて体操を見学。日本の子供たちと接する機会が玉川学園の訪問で実現し、ラーセン氏は十分に満足されて玉川の丘を後にしました。

記念の植樹
小学部の美術をご見学されるラーセン氏

実はラーセン氏の来日がきっかけとなり、日本童話協会、日本児童文学協会、日本児童劇協会、全日本児童お話協議会、日本童画協会など16ぐらいにもおよぶ協会が、日本アンデルセン協会の名の下に団結。因みに國芳が、その協会の最高顧問の一人として加わりました。

3.デンマーク日本協会会長のエルム博士夫妻が来園

学生たちが制作した「アンデルセンと子どもたち」の像は、小学部校舎の中庭のヒマラヤ杉の下に設置されていましたが、正式な除幕式は行われていませんでした。ところが過日、コペンハーゲンにあるデンマーク日本協会会長のP・F・エルム博士ご夫妻が東京を訪れることがわかり、ご夫妻を玉川学園にお迎えして、「アンデルセンと子どもたち」の像の除幕式を行うこととなりました。除幕式は、教育研究会の2日目、玉川体操研究会の3日目にあたる1963(昭和38)年11月9日に決定。

子供たちに囲まれたエルム博士
授業を参観されるエルム博士

除幕式の前に授業を参観してもらうために、國芳がエルム博士ご夫妻を中学部に案内。生徒自作のヴァイオリンやピアノを見学した後、除幕式が行われる小学部へ移動。アンデルセン像は美しい花々に飾られ、その像の前には小学生と幼稚部園児がデンマークと日本の小旗を両手に持って並び、その後ろには父母や参観者が詰めかけていました。

エルム博士を迎えての「アンデルセンと子どもたち」の像の除幕式

除幕式は國芳の挨拶で始まり、エルム博士のお祝いのメッセージ。そして、エルム夫人の手によってアンデルセン像を覆っていた白いベールが取り除かれました。ひきつづき、小学生たちによるアンデルセン童話「錫の兵隊」や「ずいずいずっころばし」の舞踊が披露され、最後にデンマークの歌である「みんなでうたえば」の合唱。除幕式終了後、エルム博士ご夫妻は小学部を参観。そして、三角点に登り、世界のスキー普及に偉大な足跡を残したハンネス・シュナイダーの像や茶室、建設中の工学部の新校舎などを眺められました。小学部グラウンドでは、鼓笛隊のパレードや体操部員による玉川体操の実技をご覧になり、美術館では学生たちが制作した彫刻や油絵、陶芸品などを見学。最後に体育館に移動され、玉川式デンマーク体操の講習会をご覧になりました。

4.「アンデルセンと子どもたち」の像

現在、「アンデルセンと子どもたち」の像は、低学年校舎に向かって右手奥の経塚山グラウンドのところにあります。実はこの像は再建されたもので2代目となります。この2代目の像は、1993(平成5)年に彫刻家の松田芳雄氏によって制作されたものです。松田氏は1957(昭和32)年に本学文学部教育学科を卒業しました。この2代目の「アンデルセンと子どもたち」の像は、経塚山グラウンドの傍らで、子供たちを優しく見守っているかのように座しています。

現在の2代目「アンデルセンと子どもたち」の像

5.アンデルセン

ハンス・クリスチャン・アンデルセンはデンマークの文学者であり、童話作家、詩人。1805(文化2)年4月2日にフュン島のオーデンセで生まれました。父親は貧しい靴職人。その父親はアンデルセンが10歳のときに亡くなりました。貧しい生活を送っていたアンデルセンでしたが、母親や祖母をはじめ周りの人たちから愛され育ちました。父親を亡くしたアンデルセンは学校をやめて工場の見習い職工となりましたが、仕事が好きになれず、15歳のときにオペラ歌手になろうと決心してコペンハーゲンに行きました。しかし、オペラ歌手にはなれず、彼が創作した詩や劇も認められませんでした。そんな彼の才能を見抜いた政治家のコリンス(コペンハーゲン王立劇場の支配人)は、皇帝の許しを得て、アンデルセンを大学に入学させました。

やがて、アンデルセンが書いた小説、詩、劇などが認められるようになり、1835(天保6)年に出版した最初の小説『即興詩人』で、ヨーロッパ中にその名を知られるようになりました。アンデルセンは、毎年クリスマスごとに童話集を出版。こうしてアンデルセンの創作した童話は150を超える数となりました。このように多くの人に愛されたアンデルセンでしたが、1875(明治8)年8月4日、71歳でこの世を去りました。

参考文献
  • 小原國芳監修『全人』第68号 玉川大学出版部 1955年
  • 高井泉著『アンデルセン博物館長Mr. SVEND LARSEN(スベン・ラーセン氏)を迎えて』(小原國芳監修『全人』第153号 玉川大学出版部 1962年 所収)
  • 酒井哲夫著『スベン・ラーセン氏来園』 (小原國芳監修『全人』第153号 玉川大学出版部 1962年 所収)
  • 高井泉著『エルム博士を迎えてアンデルセン像除幕式』 (小原國芳監修『全人』第172号 玉川大学出版部 1963年 に所収)
  • 白柳弘幸著『故きを温ねて』 (小原芳明監修『全人』No.681 玉川大学出版部 2005年 に所収)
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年

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