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玉川豆知識 No.70

二つの松陰橋

初代松陰橋が建設されてから58年後、二代目松陰橋が誕生しました。その新松陰橋の工事が完了に近づいたとき、二つの松陰橋が目の前に現れました。

1.松陰橋の誕生

玉川学園のキャンパスの中央を小田急線の電車が走っています。キャンパスの中を鉄道が通っているのは、日本全国を見渡してもとても珍しいことです。そして、小田急線を挟んだ東と西の丘を繋ぐ橋として松陰橋が建設され、1929(昭和4)年11月14日に竣功、渡り初め式が行われました。

渡り初め式
松陰橋を渡る生徒たち
大グラウンド側より望む完成直後の松陰橋
松陰橋全景

初代の松陰橋は幅が狭く、バス1台通ることができませんでした。普通の乗用車でなんとか通れるぐらいの道幅で、実際にその松陰橋の上を車が通ったことがありました。しかし、通常、車での通行は禁止でした。

高松宮殿下御夫妻と國芳(昭和24年7月)

2.松陰橋と吉田松陰

玉川塾からスタートした玉川学園、その建学の精神を後世に伝えるために、私塾の生みの親でもある吉田松陰にちなんで松陰橋と命名したと言われています。命名について、小原國芳は、學園日記第五號に次のように記しています。

それは云ふまでもなく吉田先生を慕ふてのことです。あの熱烈な愛國心、あの進取的な精神、あの貴い敎育、私たちのあこがれの的です。

『ZENJIN』No.641(2001年11月号/玉川大学出版部発行)の「故きを温ねて」には次のような記述があります。

現在の日本人が地球を自由に行き来できるようになったのは、松陰らの働きがあったからである。橋のおかげで何の苦労もなく丘から丘へ渡る時、鎖国の続く幕末の世に国禁を犯してまで渡航し、西洋の文化を学び橋渡ししようとした松陰の熱情を、丘に学ぶ若人に思い出して欲しいと考えての命名であろう。

そして、以前、この橋を大グラウンド側に渡ったところに吉田松陰の像がありました。

吉田松陰像

3.松陰橋の再建工事と二つの松陰橋

初代松陰橋は建設から55年以上が経過し、老朽化が進んだことから、新しい松陰橋を建設することとなりました。工事開始にあたっては、小田急線をまたいで私道橋を建設するということで、小田急電鉄の理解と協力があって着手できました。しかし、電車を停めて工事をするわけにはいきません。工事は小田急線の終電から始発までの限られた時間に実施。そのため、1986(昭和61)年4月より始まった工事は、翌々年の3月に漸く終了、2年の歳月を費やすこととなりました。工事が完成に近づいたとき、二つの松陰橋が目の前に現れました。

二つの松陰橋

4.新しい松陰橋の竣功に寄せて

『全人教育』479号(1988年5月号/玉川大学出版部発行)の巻頭言として小原哲郎が次のように述べています。

4月8日、本学園の創立記念日に新しい松陰橋の竣功式・渡り初め式を挙行いたしました。
   (略)
昭和4年秋に完成以来、古い橋を最も利用し、こよなく愛し、さまざまな思い出を託してきたのは、故総長(國芳)であり、私でもありました。しかし、創立当初は生徒数111名、教職員18名。それが現在では学生生徒数約1万名、教職員1千名の大所帯となりました。また西の丘に集中していた建物が、学園の発展とともに東の丘に工学部・農学部・中学部等の校舎が次々と建設されました。それに伴い、小学部前の道路を通る人車も多くなり、小学部の教育環境も悪化してきました。橋自体も狭く、長年の星霜を経て老朽化し、新しき時代に相応しい新しき橋の建設がなにより急がれておりました。
小雨降るなか、竣功成った広々とした新しい松陰橋を、幼稚部生から大学生までの代表諸君や教職員一同とともにわたりながら、正に万感胸に迫るものがありました。この橋の完成によって、私ども待望の、東と西の丘を結ぶ「夢の懸け橋」ができました。
   (略)

5.新松陰橋と大雪とタヌキ

現在の二代目松陰橋は、1988(昭和63)年4月8日に竣功し、渡り初め式が行われました。渡り初め式の日は、桜咲く4月であったにもかかわらず、前日に記録的な大雪が降り、道路には雪が積もっていました。雪かき労作により雪のなくなった松陰橋の上で、テープカットや玉川太鼓の演奏が行われました。

松陰橋は、大型車両がすれ違うことができ、歩道も両側に配置された大きな橋に生まれ変わりました。大型観光バスが10台、人間が約1,650人、同時に乗ってもびくともしない立派な一等道路橋です。

自然環境を壊さないようにとの配慮から45度で斜めに橋が架けられました。それにより現在の正門から続く道と大学8号館へ向かう道とが直線で結ばれました。橋の長さは62m、幅は14m、重量は1,600t。橋台は橋の両端で支える構造で非常に強固に造られました。

渡り初め式の際にこんな笑い話がありました。渡り初め式の前に積もった雪の上に点々と足跡が。「大変です、先生より先に橋を渡った者がいます」。当時理事長・学長・学園長だった小原哲郎にそのような報告が入りました。なんとその者はキャンパス内に棲むタヌキでした。

関連リンク

参考文献

  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園50年史(写真編)』 玉川学園 1980年
  • 小原哲郎監修『全人教育』479号(1988年5月号) 玉川大学出版部 1988年
  • 小原芳明監修『全人』800号(2015年12月号) 玉川大学出版部 2015年
  • 『玉川学園・玉川大学の教育活動』 玉川学園 2008年
  • 白柳弘幸著『故きを温ねて』 (小原芳明監修『ZENJIN』No.641 玉川大学出版部 2001年 に所収)
  • 白柳弘幸著『故きを温ねて』 (小原芳明監修『全人』No.676 玉川大学出版部 2004年 に所収)

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