『全人』生涯学べ(2013年10月号)

鬼 一二三さん

カンボジア
国際日本文化学園
理事長

東京都出身。通信教育部で幼稚園1種教員・小学校1種教員免許状、図書館司書資格を取得

日本語を学ぶことで仕事への夢が広がる

 カンボジアのシェムリアップは、世界遺産のアンコール・ワット遺跡で知られる緑豊かな町です。日本語を学んで観光業に就きたいという人も多く、私がこの地で日本語教室を始めたのは1995年のことでした。
 夫はJICE(日本国際協力センター)に勤め、日本の専門家と現地の要人の間に立つ仕事をしていました。夫のカンボジアへの赴任が決まり、私が日本を発つ直前、先に現地へ入った夫からの電話で「日本語と英語を教えられるようにして来てね」と言われたのです。いずれも教えた経験はなく、とりあえず書店で日本語の教科書2冊と中学英語の文法書1冊を買って、カンボジアへ。自宅には机と椅子のセットが注文されていました。
 1カ月ほど経つと、「ハロー!」と若者が来て、「日本語を勉強したい」と言う。「いつからやりたいの?」と聞くと、「明日の朝5時45分から」と言うので、「15人で来たら始めるよ」と話したら翌朝には揃っていました。次の週には別の子が訪れ、「夕方6時から習いたい」と言われて同じように答えると、翌日には15人で来たのです。
 私は現地の言葉であるクメール語が全然わからず、英語で説明していましたが、通じない言葉も多かったので、独学でクメール語を覚えました。
 もともと日本語教師になろうと思っていたわけじゃなく、子どもの頃からの夢はお嫁さんになること(笑)。カンボジアの前に家族で駐在していたのは、ケニア共和国のナイロビです。私は1歳になる息子の子育て中で、現地の女性は遠方の実家に子どもを預けて働いていることを知って、託児所を作りたいと思いました。夫に話すと「幼稚園の先生になる勉強をすれば」と勧められ、日本にいる姉に玉川大学に通信教育部があると教えられて、幼稚園教員の免許取得コースへ入学しました。

ずっと学び続けたことはいつか役立つときがくるだからこそ勉強の大切さを子どもたちに伝えたい

 通大には6年在籍し、その間にカンボジアへ赴任したので託児所の夢はかないませんでしたが、日本語教室は熱心に勉強する若者でいっぱいになりました。ところが2年ほどで夫の次の赴任先が決まったとき、思いがけず、「一緒に来なくていい」と言われました。「今やっていることは楽しいでしょう?続けたらいいよ」と、一人で置いていかれてしまったのです。
 日本へ戻ることも考えましたが、私がいなくなれば他に日本語を教える学校もなく、生徒たちの勉強もそこで終わってしまう。迷ううちに、プノンペンでクーデターが起きて一時帰国した際、教え子から教科書の問題を解いた答案を添えて手紙が届きました。「先生、もうカンボジアは平和です。帰ってきてください」と書かれていました。
 国際協力に関わる方のアドバイスを受け、知人に現地での活動を知らせる手紙を送ると、支援してくれる人たちが現れて、大きな励みとなりました。私はカンボジアに帰って学校を続けることにしたのです。
 その後、自分も〝学ぶ者〞の気持ちを忘れたくないと、通大へ再入学して小学校教員のコースへ編入。5年前から日系子女のための補習授業校で小学生を教えています。さらに図書館司書の資格も取得し、2010年から社会教育主事コースを受講。カンボジアでは日本人会の役員もしているので、地域のコミュニティ作りについて学ぶことが役立っていますね。
 今まで日本語教室で教えた生徒は2300人。遺跡で観光ガイドをしたり、ホテルや空港など、シェムリアップのどこへ行っても教え子が日本語を使って仕事している姿を見かけます。日本語教師などになりたいと勉強し、自分の夢を目指す子たちも増えている。それが嬉しくて、私もここまで続けてこられたのだと思います。

2001

カンボジアで秋篠宮殿下と同妃殿下が日本語教室を見学され、「よく勉強していますね」と声をかけられた。生徒は手作りの日本の国旗でお迎えした

2010

国際日本文化学園の新校舎が完成し、落成式には日本から母が来てくれた。クメール古典舞踊の衣装で祝福の舞を披露し、来賓に花びらを捧げた

2013

教室で日本語能力試験対策の授業をしている。壁には日本の大学生がスタディツアーで訪れた際に説明してくれた東日本大震災の写真が貼ってある

2005

日本語ガイドコースは約3カ月間。これから観光ガイドを目指す人たちに加え、すでに日本語ガイドをしている人たちも、さらに勉強を続けている。バイヨン寺院にて、観光案内の研修時に記念撮影。鬼さんもガイドコースの教科書として『カンボジア日本語ガイドの基礎知識100』を出版している