小原一仁先生第4回 型破り

2016.07.05

「型破り」という言葉は、なんだか破天荒で格好良いイメージを抱く人もいるのではないでしょうか。既成の枠には囚われない、自由かつエネルギッシュな人物像が連想されますが、最後のコラムでは、この「型破り」をテーマにして、私の連載を終わりとします。
「型破り」ということは、破る対象の「型」が前提としてあるわけです。しかし、この「型」というものは一体全体どういったものなのでしょうか。お稽古事に携わっている人は、「型」というものを強く意識する機会があろうかと思いますが、普段の生活でそこまで「型」というものを意識することは少ないと思います。私は、以前まで煎茶を習っていました。見た目はアレですけど、これでも看板を持っています。煎茶のお稽古は、ひたすら「型」(「お点前」と呼びます)を学び、「型」を習得することに重きが置かれます。看板式を受け、看板(つまり師範になる資格)を得た後も、奥の手と呼ばれる「型」を学び続けるのです。
いつの日か自分の流派を興さない限りは、家元の存在を超えることはできません。つまり、特定の流派に属するということは、家元によって創出される「型」の世界に居続けるということでもあるのです。では、ある種神のような存在としてその流派に君臨する家元は、どうして家元で在り続けられるのでしょうか。家元は努力なく家元で在り続けているわけではありません(多分・・・)。新しい「型」を生み出すために、常に先代から継承した既存の「型」を学び、幾度となくその「型」を繰り返すことで、ある時ふと新しい「型」に至ります(多分・・・)。
「型」を破るためには、まず、破る対象となる「型」を熟知し、その真髄を理解しなければならないといえます。手当たり次第に既存のフレームワークをぶっ壊せば「型破り」になれるというのは、とんだ的外れということです。これは、研究の世界においても同様と私は考えています。既存の研究(他者の研究)を学ぶ姿勢も持ち合わせぬまま、画期的かつ革新的な研究が生まれることはありません。綿々と続けられてきた基礎研究をトレースあるいは自分自身もそこで知識を蓄積し続けるなかで、既存の研究の限界点をほんの少しだけでも「前進させられる何か」を発見する応用研究が生まれるように、地道な積み重ねが、まさに研究であり、研究の醍醐味ではないでしょうか。
「天才」と呼ばれる人たちはそのプロセスを進める速度が速いだけであって、「凡人」であってもこつこつと地道な努力をすれば、何時の日か必ず「型」を破る瞬間に立ち会えると、「凡人」である私は信じています。