山口先生:「平等について」Vol.4:平等と社会的上下関係

2017.12.27

正義の女神は天秤ばかりを手に持っており、両皿の釣り合いがとれた状態が平等、すなわちそこに正義が成立する。それゆえ、前回までに記した無差別的平等と比例的平等における「何の平等か」という変数は「権利、給与、待遇、成績・・・」等々多岐に亘るが、さらに押さえておかねばならないことは誰がその平等を担保するのかという点である。いわゆる天秤量りをもつ女神に該当する者の存在である。一般に自然法思想における権利を担保する者は国(法)である。だが従業員に支払う給与を一律同額(無差別的平等)とするか能力給(比例的平等)とするかは、その会社経営者の平等観による。また教育現場で子供達を平等に扱う場合、女神役をするのは教師である。それゆえ平等を担保するためには、その都度都度において無差別的平等と比例的平等のどちらの観点から子供達を扱うかを規定しなければならない。
かつて通知表の評価を付けるのが平等に反するとして、児童全員に「5」を付けて問題となった教師もいたが、無差別的平等を子供達に適応しようと思うのであれば、そこから別の不平等が生じてもなおそちらの平等を優先させねばならない説明責任を教師は負うことになる。
さらに無差別的平等という観点から、教師と児童生徒の関係を捉えた場合、その変数となるものが「人権」「生きる権利」というような自然法思想に基づくものであれば誰もが受け入れようが、「言葉遣い」というような変数で平等を語ろうとすればとんでもない過ちを犯すことになる可能性もある。教師と生徒が「同じ(平等)」なのは、何度も繰り返すように自然法的な「権利」が同じということであり、これは何も教師と生徒に限ったことではない。ところが、「自然法思想に基づく生得的な権利」という観点から平等を理解することができずに、両者の「有様」を同じにしようとすれば生徒も教師も同格になってしまい、生徒と教師との「タメ口」を容認するのみならず、授業開始時の「お願いします」、終了時の「ありがとうございました」という挨拶さえも、それが上下関係を意味するから不要という方向に進んでしまう。現にこうした公立小中学校は多々存在する。
教師と児童生徒、この両者の関係は、平等教育を行う教育現場においては上下関係であってはいけないのものなのであろうか。
教師は、学校現場において「学習指導」「生徒指導」「指導案作成」など、「指導」という言葉を多用するが、これこそ教師と児童生徒との関係が上下関係であることの証左でもある。そもそも、教育者と被教育者間において「教師も生徒も同じ」ということはあり得ない。教える方が上であり、習う方が下であることは当たり前のことである。会社には上司・部下の上下関係があり、教育現場でも校長・教頭・教諭の区別や先輩・後輩の区別がある。教える・習うというその形態からすれば、当然のこと、その関係は上下関係なのである。だから、もし仮にピアノを弾けない教師がピアノのできる子供からその教えを請うとすれば、それは当然教える方(子供)が上で、教えてもらう方(教師)が下となるような逆転した上下の関係性が生じることになる。
教える側が上であり、習う側が下であるという当たり前のことを教師が教えなくてよいものだろうか。いずれ社会に出て行く生徒達に対して、誰もが同じですよと無差別的平等の視点からだけ示すのではなく、人間の世界には「自然法的な無差別的平等」と「人に応じた比例的平等」そして、同時に「社会的な上下関係」の3つが共存しているということを教えるのが女神役を務める教師の務めではあるまいか。
最後に冒頭の5つの問いに対する返答例を記して、本稿を終えよう。

  • A、B→
    「貧富」「人々(万人)」は「有様」においては当然のことながら皆異なっている。あくまでも同じ(平等)であるのは、「生きる権利」というような自然法思想に基づくものに限る。それゆえ、万人は「平等」と理解するよりも「同権」と理解した方が正確である。
  • C、D→
    平等には無差別的平等と比例的平等という二つの意味があることをまず理解しなければならない。どちらの平等を優先すべきかは天秤量りの担い手が決めることになるが、無差別的に「有様」を同じにすることだけを平等と早とちりしてはいけない。「各人に応じたもの」という比例的な平等も存在するのだから。
  • E→
    社会には「(自然法的な)無差別的平等」と「(各人に応じた)比例的平等」の他に「(社会的な)上下関係」というものが共存していることを忘れてはいけない。確かに先生と生徒は「生きる権利」においては全く平等であるが、両者には社会的上下関係も成立するので、この点をきちんと理解していないと、将来、社会に出た時に困ることになるぞ!(終)