玉川豆知識 No.83

3日だけの先生、成田為三-瞬間は永遠なり。神様には、一瞬も百年も、みな、永遠なのだ-

「浜辺の歌」を作曲した音楽家である成田為三は、戦前から戦後にかけて童謡曲から輪唱曲まで幅広い分野で数多くの名曲を残しました。その成田が、玉川学園の専任教員になりました。しかし、専任教員だったのは3日間でした。

1.成田為三(なりた ためぞう)と「浜辺の歌」の誕生

成田為三は、1893(明治26)年、秋田県北秋田郡森吉町米内沢生まれ。1913(大正2)年に秋田県師範学校を卒業後、鹿角郡毛馬内尋常高等小学校で一年間教鞭を執りました。翌年、東京音楽学校甲種師範科に入学。山田耕筰に師事し、在学中の1916(大正5)年に名曲「浜辺の歌」を作曲しました。成田24歳の時でした。作詞は林古渓。「浜辺の歌」は、宣伝もなしに長い間、毎日のように日本中に流れ、今でも歌い続けられています。成田の東京音楽学校時代は童謡作曲の盛んな時で、作曲家としては中山晋平、梁田貞、弘田龍太郎、本居長世などが、作詞家としては北原白秋、葛原しげる、西條八十、野口雨情などがいました。

秋田県師範学校時代(1912年頃)、成田は音楽に開眼
前列左より2番目(チェロを持っている)が4年生だった成田
成田自筆の「浜辺の歌」

翌年、東京音楽学校を卒業。同期にオルガンの真篠俊雄(のちに玉川大学教授)がいました。同年、佐賀県佐賀師範学校に赴任。1918(大正7)年、当時唯一の音楽出版社であったセオノ楽譜から独唱歌として「浜辺の歌」が伴奏つきで刊行されました。伴奏つきというのも珍しかった時代です。「『浜辺の歌』の成田為三先生」というタイトルで『全人教育』の第160号(玉川大学出版部)に岡本敏明が次のように記述しています。

「浜辺の歌」は一日のうち何回ともなく電波に乗って皆さんの家庭や、学校や、病院、工場、会社で働く人、学ぶ人、病める人の心をやさしくなぐさめているのである。日本中はおろか、アメリカの映画で有名なワーナー・ブラザーズはこの歌のアメリカ録音権を取得して、アメリカでも電波となって流れている。また、チェロの世界的巨匠モーリス・マレシャルの霊腕によって奏される甘美なメロディーはヨーロッパにも知られているので、「浜辺の歌」は正に世界中の人に愛される不朽のメロディーとなったわけである。

2.『赤い鳥』と「歌を忘れたカナリヤ」

上野公園不忍池畔にある「かなりや」の碑

1919(大正8)年、成田は佐賀師範学校教諭の職を辞任して東京に戻り、1921(大正10)年まで赤坂小学校で音楽を教えるとともに、童話雑誌『赤い鳥』を刊行した小説家鈴木三重吉のすすめもあって作曲の仕事に没頭。そして成田は『赤い鳥』の童謡選者となり、自身でも数々の童謡を発表しました。成田作曲、西條八十作詞の「かなりや」(「歌を忘れたカナリヤ」)が『赤い鳥』誌上で発表されると、新鮮にしてその甘美なメロディーが日本中の青年たちや子供たちの心を掴み、愛唱歌となっていきました。テレビやラジオのないこの時代に、この歌は全国津々浦々まで普及していったのです。「かなりや」について、『成田爲三名曲集』の中で、西條八十が次のように記しています。

三重吉の注文はむずかしかった。芸術的な歌、すなわち詩であって、しかも子供に興味ぶかく唱えるような歌を書いて欲しいと言うのだった。
ぼくは考えた。芸術品である以上、そこには作者の真の感動がこもっていなければならない。そうしてその詩の姿は子供にもわかり悦ばれるものでなければならない。ぼくは二重に裏うちされた絵を考えた。フランスの象徴詩の手法を想った。そうした気持で書かれた歌の中に成田為三作曲の、「かなりや」がある。
たびたび書いているように、この歌はぼくの実感の披瀝で、ぼく自身が当時まったく「歌を忘れたかなりや」だったのである。
    (略)
偶然このうたが成田為三作曲で『赤い鳥』で最初、そして我国に於て作曲された芸術的童謡の第一作となったのである。
ぼくは成田氏に数回会ったが、その最初はいつどこであったか記憶していない。とにかく当時ぼくはまだ二十七歳の青年で、成田氏も若かった。色白な美青年で、どこか日本人離れした顔つき、そして言葉にひどく地方訛りがあったことを覚えている。ぼくは成田氏がぼくのこの童謡を、いわゆる唱歌式イージーゴーイングなかたちで作曲せず、かなりむずかしくもある高度な芸術的手法で作曲してくれたことに感謝した。

3.ドイツ留学とその後

成田の肖像画(鈴木満画)

1922(大正11)年に成田はドイツに留学し、ベルリンにて作曲家の元老ロバート・カーン教授に師事。1926(大正15)年1月に帰国し、同年4月に鈴木文子と結婚。1928(昭和3)年、川村女学院の講師となり、1931(昭和6)年まで続けました。同年、小松耕輔と共同編集して『新日本小学唱歌』を宝文館より毎月刊行。1933(昭和8)年、東洋音楽学校講師となり、1935(昭和10)年まで務めました。1941(昭和16)年には国立音楽学校の教授となりました。1929(昭和4)年に『対位法初歩』(先進堂)を刊行して以降、音楽理論に関する『和声学』(六星館)、『楽式』(音楽世界社)、『楽器編成法』(音楽世界社)などを次々と刊行。ドイツ留学をはじめ当時のことを、『成田爲三名曲集』の中で、岡本敏明が次のように述べています。

ドイツでは当時世にきこえた作曲界の耆宿ロバート・カーン教授に五年間師事された。ベルリンでの五年間は文字通り作曲三昧の生活であったようである。カーン教授は非常に几帳面な人であったらしくその影響で音符の一個、スラーの一片もゆるがせにしないで、一音、一音に意味をもたせて、無駄な音をつかわない作風を身につけられた。曲首の速度・発想記号も先生はほとんどアンダンテとかモデラート等一語だけで、二種を組み合わせて用いられることは珍しかった。
    (略)
大正十五年、帰国後、数々の抱負をもっておられたようであるが、先生の健康は外に出ての所謂楽壇人としての活動を許さなかった。週に一、二回、田村女学院と東洋音楽学校に教えに出られるほかは、ほとんど自宅で何人かの門下生を教え、作曲に関する著書、音楽教科書の編集、依頼された作曲に没頭された。
    (略)
当時ほとんど日本の楽界に紹介されていなかった作曲法の基礎である対位法をはじめとして、数々の音楽理論書を著作されたことは大変な労作であり、初期の日本の楽界に大きな貢献をされたことになるのである。

4.成田為三と岡本敏明

1958年の13回忌に秋田県米内沢の森吉小学校の校庭に
建てられた顕彰碑。「浜辺の歌」の譜が刻まれている。

岡本敏明は1929(昭和4)年に国立音楽学校を卒業して、玉川学園で教えることになりました。そして、学生時代からの作曲の勉強を継続するために、よき師を求めていました。そして成田の作風にひかれ、岡本は紹介状もなしに成田の自宅を訪問。そして、成田が亡くなるまで、二人の師弟関係は続きました。そのことを、『成田爲三名曲集』の中で、岡本は次のように語っています。

昭和四年に卒業して玉川学園の音楽の先生になった私は、作曲の勉強を継続したい欲望がおさえきれず、当時ドイツ留学から帰国されて評判の良かった成田先生の門をたたいたのは昭和五年の末頃であったろうと思う。
お宅は滝ノ川、飛鳥山公園の近く、閑静なお住居で、レッスンは二階の何の飾り気もない八畳間でしていただいた。書架はオーケストラの総譜や音楽理論の原書でいっぱいになっていた。ピアノの横に特別あつらえらしい楽譜棚があって、先生の作曲されたものがオーケストラとか、リード(歌曲)とか、カルテット(四重奏曲)とかの見出しをつけて整理されていた。この書棚は作曲志望の私にはあこがれの的で、数年後、この書棚の寸法をはからせてもらって私の書斎にもその分身が飾られて三十年。私にとっては忘れ難い愛着と思い出をもつ家宝になっている。
「コラールからやり直しましょう」と毎週のレッスンはきびしくはあったが、あたたかいご指導をいただいた。その都度新しい知識を得させてもらって、爾来十五年、細く長く先生の弟子として可愛がっていただいた私は本当に果報者と思っている。

5.3日だけの先生

1945(昭和20)年4月、空襲により成田の自宅は焼失。家財、作品の一切を失いました。都会生活に希望を失った成田は郷里の秋田県米内沢の兄の家に疎開。やがて終戦となり、10月27日に玉川学園の専任教授として迎えられて上京。玉川学園の女子寄宿舎の一室に落ち着かれました。翌日は、小原國芳の招待で小原家を訪問。しかし、翌10月29日の朝、脳溢血で倒れ亡くなられました。享年53歳。葬儀は玉川学園の礼拝堂で行われ、玉川学園と国立音楽学校の生徒たちによって「浜辺の歌」が先生の霊前に捧げられました。成田が玉川学園に滞在した3日間について、『小原國芳全集36 教育論文・教育随想(7)』の中で、小原は次のように述べています。

成田先生が、終戦後、岡本君の懇望のオカゲで、玉川の先生になって下すったのです。
    (略)
ちょうど、私の書斎のスグ近くの、女学部の塾の一番の奥まった静かなところに住んでいただいたのでしたが、とても、喜んで下さいました。
スグ、聖山の森です。いろいろの花も咲きます。小鳥も歌います。女生たちは殊のほか、喜んでもらえました。
玉川入りしていただいた翌日でしたか、お伺いしましたら、お夫婦で、廊下なぞ拭いていらっしゃいました。
「とても、いいところですね。悉皆、気に入りました」
と、シンから喜んでいて下さいました。無論、戦後のこと、世間がおそろしく不自由なオカゲなのです。が、ホントに喜んでいて下さるんだと、私も、ホットしました。
「ホントに、喜んでいられます」
と、岡本君も報告してくれました。私は、たまらなくウレシかったのです。
     (略)
ところが、赴任されて三日目!
先生の急死!
それは、それは、あまりの大喜びの感激の結果だったそうです。医者に言わせると脳溢血だったと。ビックリしました!全く、惜しいにも、惜しい限りでした。
僅か、三日間の先生!
でも、時間の長短ではないのです。儼然たる玉川の先生です。ゲーテは、「瞬間は永遠なり」と申しました。神様には、一瞬も百年も、みな、永遠なのだと思います。
わたしたちの先生! なのです。
そして、今、あの清らかな、美しい、やさしい、高い、歌集が出来ました!

6.代表曲(『成田爲三名曲集』より)

分類曲名作詞者
童謡・唱歌  青い鳥小鳥  北 原 白 秋
 かなりや  西 條 八 十
 りすりす小栗鼡  北 原 白 秋
 葉っぱ  北 原 白 秋
 鈴蘭のうた  菊 池 知 勇
 落葉  北 原 白 秋
 金魚  北 原 白 秋
 牧場の朝  林   柳 波
 花火  西 條 八 十
 月見草  菊 池 知 勇
 とんとんとんぼ  林   柳 波
 青葉若葉  川 路 柳 虹
歌  曲  浜辺の歌  林   古 渓
 古戦場の秋  葛 原 しげる
 清怨  竹 久 夢 二
 木の洞  三 木 露 風
 風のあと  北 原 白 秋
 安房にて  西 條 八 十
民謡調歌曲  磯の燕  北 原 白 秋
 海女  北 原 白 秋
 不二の高嶺に  北 原 白 秋
二部輪唱  ころころ蛙  北 原 白 秋
 山の枇杷  北 原 白 秋
 山の紅葉  菊 池 知 勇
三部輪唱  浪の音  北 原 白 秋
 かりうど  北 原 白 秋
四部輪唱  雨の田  北 原 白 秋
二部合唱  たんぽぽ  北 原 白 秋
 希望  岡 本 敏 明
三部合唱  かぜ  北 原 白 秋
 ほろほろと  行     基
混声四部合唱  梅花  北 原 白 秋

参考文献

  • 岡本敏明編『成田爲三名曲集』 玉川大学出版部 1965年
  • 小原國芳監修『全人教育』第197号 玉川大学出版部 1966年
  • 岡本敏明「『浜辺の歌』の成田為三先生」(『全人教育』第160号 玉川大学出版部 1962年 に所収)
  • 『小原國芳全集36 教育論文・教育随想(7)』 玉川大学出版部 1969年
  • 『小原國芳全集41 日本新教育秘史(1)』 玉川大学出版部 1978年