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玉川豆知識 No.38

芥川賞受賞作家笠原淳の作品に登場する玉川学園キャンパス

本学文学部芸術学科卒業の村田沙耶香さんが「コンビニ人間」という作品で、第155回芥川賞を受賞しました。本学の卒業生では二人目の芥川賞作家の誕生となりました。では、本学卒業生で初めて芥川賞を受賞したのはどのような方なのでしょうか。

  • 因みに、本学卒業生で直木賞を受賞された方には、井上荒野(本学高等部卒業)、道尾秀介(本学農学部卒業)の両氏がいらっしゃいます。

1.本学卒業生で初めて芥川賞を受賞した笠原淳(かさはら じゅん) (敬称略)

1994(平成6)年に玉川学園のキャンパスを舞台にした『茶色い戦争』が新潮社から刊行されている作家の笠原淳。彼は、玉川学園小学部を1948(昭和23)年に、玉川学園中学部を1951(昭和26)年にそれぞれ卒業しました。

本名は、長野義弘。1936(昭和11)年に生まれ、2015(平成27)年に死去しました。79歳でした。2003(平成15)年から2006(平成18)年までの間、法政大学文学部教授でもありました。

1969(昭和44)年に『漂泊の門出』で小説現代新人賞、1976(昭和51)年には『ウォークライ』で新潮新人賞を受賞。そして、1984(昭和59)年に『杢二の世界』で第90回芥川賞を受賞しました。本学卒業生での芥川賞受賞は初めてのことでした。

2.本学キャンパスを舞台にした小説『茶色い戦争』

詩人の中原中也の作品『サーカス』の冒頭には

幾時代かがありまして
茶色い戦争ありました

というように「茶色い戦争」という言葉が出てきます。この言葉をタイトルとした笠原の作品『茶色い戦争』は、彼が住んでいた玉川学園を舞台にした自伝的小説です。太平洋戦争の開戦の直前から終戦までの日々が、作者の体験をもとに綴られています。

この作品には、当時の玉川学園のキャンパスの様子が具体的に描かれています。そのいくつかを、作品の文章を引用してご紹介します。

三角点から西側を見下ろしたときの風景について

三角点の頂から西側を見下ろすと、急な斜面からやがてなだらかなスロープがつづき、放牧された十数頭の緬羊が思い思いに草を食んでいる。その先にひろがる松林だの雑木林、野菜畑や果樹園の間に、学園の校舎、塾舎、食堂、図書館、工芸館、教職員の住宅などが点在している。さらにそれらの向うの丘をおおう森の頂に、聖山と名付けられた小山を背にして礼拝堂の尖塔が白く浮かんでいる。

また、松陰橋からグラウンド、体育館、正門、玉川学園前駅にかけて

やがて、線路をまたいで二つの丘を結ぶ松陰橋のたもとに出る。橋の真中で、上り電車と下り電車のどちらが先に来るか待ってみるか、それとも橋を渡らずにまっすぐ行くか。
緩い下り坂を少し行くと、学園のグラウンドに出る。グラウンドの正面がピラミッド型に築かれたスタンドで、その上に体育館があり、入口前のポールに日章旗と校旗がひるがえっている。
グラウンドを行き過ぎると、道は線路に近付き、踏切がある。それを渡ると、学園の正門の前に出て、礼拝堂の方から下ってきた砂利敷きの本通りに合流する。桜の若木の並木に沿ったこの道を、右手に学園の池を見ながらしばらく行くと、駅である。

今はない、当時あった踏切

玉川学園が開校されたときの評判

報知新聞、実業之日本などにも、一種のおどろきをもって、松下村塾を理想に、とか、世界の最も進歩せる方法に成った寺子屋式の玉川塾、とか、理想的一大学園、などと大きなスペースを割いて詳細な記事が伝えられている。

体育館の裏手に造られた落下傘降下台からの体験降下、学園の航空部の学生の模範演技

落下傘降下台は、体育館の裏手の山の中腹に設けられていた。切り立った崖の端に自生した松の木を支柱にして櫓を組み、高さ十二メートルの松の幹から九メートルの腕木を出し、滑車を利用して落下傘を吊り上げる。簡易にして経済的な構造は将来の降下訓練に大いに利用価値の高いものである云々、と後日東京日日新聞やアサヒグラフなどでも報道された。
(略)
製作にあたった航空部の学生が先ず模範演技を示してから、初等部の生徒たちが次々に飛んだ。

降下訓練

落下傘降下台建設

戦時下のキャンパス

時折礼拝堂から第九の合唱が聞こえてくることもあったが(年末にNHKラジオで国立音大と共に第九の演奏に出演する恒例は昭和二十年までつづけられた)学園内で塾生たちがのどかに労作する姿を見ることは少なくなっていた。中等部の生徒や専門部の学生たちは東に二キロほどはなれた山あいの田奈部隊の作業場に動員されていた。“田奈部隊”と聞くといかにも重い扉に閉ざされた軍の機密基地のような施設を想像させられたが、実際山中に横穴を掘り、そこを弾薬工場にして、高射砲や戦車砲の弾の他、自決用手榴弾も作っていたという。それらを箱詰めにして横浜線の長津田駅までトラック輸送する。学園の男子生徒たちはその積み下ろし作業にたずさわっていた。その他、一部は川崎の日本冶金工業などにも動員されていった。一方、学園内には軍需関係の諸施設が疎開してきていた。中島飛行機、住友通信研究所(電波探知機の製作)、ロケット開発の糸川英夫博士をリーダーとする内閣戦時研究一一研究所、成田無線研究所(無線操縦の航空機開発計画に携わる)などである。女学部の生徒たちは主にこれらの施設で働いた。

戦時中でも音楽とともに・・・ 『蝶々夫人』で世界的に有名なプリマドンナで、日本人による初めてのオペラ公演に出演した三浦環(みうら たまき)
※三浦が蝶々さんに扮した姿の銅像が、長崎市のグラバー園にあります。

山中湖畔の中野村平野地区にある平野屋旅館が学園の疎開先の宿舎で、玉川学園富士分園と称していた。塾生を主とした疎開者は総勢三十名ほどである。
(略)
当時山中湖畔に疎開していた三浦環は、小原園長に請われて時折女学部の生徒たちの歌唱指導を行っていた。女生徒たちが三浦環の家を訪れたり、彼女の方から宿に出向いてきたりした。プリマドンナもそれを愉しんでいたようである。

その他にも、玉川の丘の当時の様子がいろいろと語られています。

  • 講演のため夜汽車で地方に出かける玉川学園創立者小原國芳が、列車の発車時間ギリギリまで子供たちに熱く教育を語る姿
  • 中学部生が松陰橋の欄干からコウモリ傘を開いて飛び降りて足を骨折した話
  • 笹薮の中での戦争ごっこ
  • 礼拝堂のパイプオルガンの「別離の歌」のメロディ
  • 学園のグラウンドにあった飛行機(複葉の練習機)
寄贈された飛行機(複葉の練習機)

参考

1951(昭和26)年7月10日発行の「たまがわ」第1号(玉川学園中学部発行)には、作文や詩、俳句、短歌、童話などの創作、理科の実験内容・方法、読後感想文、映画評など生徒たちの作品が50編弱載せられています。これらは、卒業生の作品の中から優秀なものとして選ばれたものです。創作5編の中に、当時中学部3年生であった笠原が書いた「栗の実のやけるまで」というタイトルの作品が掲載されています。おじいさんが語る話と、その話を聞いている少年を描いたもので、文章も背景描写も素晴らしい作品となっています。

参考文献・引用文献
  • 笠原淳著『茶色い戦争』 新潮社 1994年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園50年史(写真編)』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園中学部編集委員会編『たまがわ』第1号 玉川学園中学部 1951年

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