松本先生Vol.6:工藤直子の詩による読みの交流の学習(2)

2016.02.09

「へんじ」には「こねこまりこ」の署名がある。署名部分も伏せての空欄補充課題になっているわけである。何らかの生き物を想像し、その声を聞き・再現するように読む。「わたし」「ぼく」という一人称の語りであり、その想像に浮かんだ生き物が、通常、語り手である。その上で他者の読みと出会い、どう読んだかを交流する。その違いにふれながら、自分の読みを見直していくという学習である。交流が成立するということが、そのまま言語活動の成立を示す。
作者は形式上「こねこまりこ」である。この詩の言葉はいったい誰の声で聞こえるのか。
空欄に自分の名前や「ぼく」を入れた子どもは、「わたしの声」で詩を享受しているのであり、その意味では、まっとうなのである。『去来抄』には、去来の「岩鼻やここにもひとり月の客」の句に対して、芭蕉が「ここにもひとり月の客と、己(おのれ)と名乗りいでたらんこそ、いくばくの 風流ならん。」と言ったという記事がある。これはさまざまな側面を持つ言葉ではあるが、詩を「わたしの声」で享受するということに通ずるものがある。
「おさむさん」/「はーい」だと、「おさむ」くんは耳が動くということになる。子どもは「動くよ」と言うだろう。「ではお友達は誰かな」と言うと、「猫さん」とか「うさぎさん」と言うかもしれない。そうしたら、その子どもは「のはらみんな」の一員であり、詩の世界に直接参入していることになる。