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本間俊平

2016.09.05

本間俊平と小原國芳の出会いによって、成城学園が誕生

本間俊平

玉川学園の礼拝堂は、「本間俊平全集」(玉川大学出版部発行)の印税を基金に建立されたので、「本間記念礼拝堂」とも呼ばれた。そして、本間は、1930(昭和5)年10月13日の礼拝堂献堂式に招かれ、「礼拝堂がある限り神様は玉川学園を守り育てて下さる。自然を愛し、人を愛し、汗を流すことに喜びを感じる人になってほしい。」と話された。その本間と玉川学園創立者小原國芳との出会いは、ずっと以前に遡る。

本間俊平の「ことば」

本間俊平(左)と小原國芳
1930(昭和5)年10月、玉川学園にて

教育界の大御所であった澤柳政太郎校長の招きで、1919(大正8)年12月、牛込原町にあった成城小学校の主事として上京した小原國芳。小原は主事として新教育運動に力を注いだ。1921(大正10)年8月、「全人教育」を提唱、そして翌1922(大正11)年4月、成城小学校と同じ学風をもった成城第二中学校を新設した。だがその翌年の1923(大正12)年に関東を襲ったのが、あの大震災。そこで郊外に新たな土地を探すこととなった。1924(大正13)年、小原37歳のときであった。

候補地をいろいろと検討したがなかなかこれはという土地は見つからなかった。小原は、かねてから尊敬していた「秋吉台の聖者」といわれ、不良少年感化事業を行っていた本間俊平を訪ね、考えを聴くことにした。そのときのことが、『教育一路』(小原國芳著/玉川大学出版部発行)に、次のように記述されている。

【大正十三年の正月、寒い日でした。私は山口県の「秋吉台の聖者」本間俊平先生をたずねました。金策と学校経営についてのお知恵を拝借したかったのです。
「僕に金はないよ。何年か前、加島銀行の広岡あさ子さんが、五十万円使ってくれといって持って来られたが、私は、必要な時は神さまが下さることになっているといってお断りした。その金が近江八幡のヴォーリスというアメリカ人のところにあるはず。奥さんは広岡のご主人の妹さんだ。紹介状を書くから、帰りに寄ってみたまえ」
やがて先生は、大きな東京地図をひろげて、腕組みをなさる。
「君、十マイル(十六キロ)郊外へ出たまえ。西南だ。東北本線沿いは寒い感じがする。千葉方面は本所深川を通るから品が落ちる。東海道線はもう横浜まで家がつまっている。これからはきっと、新宿あたりから小田原へ向かって新しい線が出来る。安く買い占めろ」
「でも先生、十マイル離れると、小学生なぞは通えないではないですか」
「ばかやろう!お前が立派な学校をつくれば、交通はおのずからついてくる。交通のついて来ないような学校ならつぶしてしまえ」】

成城学園の誕生

また、『教育とわが生涯 小原國芳』(南日本新聞社編/玉川大学出版部発行)には当時のことが次のように記されている。

【現在の成城学園は、本間と小原のこの出会いで、誕生したといえる。
測量、土木、金策、分譲についても本間は適切な助言をした。
帰りは人力車を用意した。別れぎわに、本間の大きな手が、小原のポケットに突っ込まれた。
ふところのさびしいことを察して、紙包みが用意されていた。あけてみると、十円札が三枚ある。東京までの二等の汽車賃、弁当代に相当する。】

実は、小原は本間を秋吉台に訪ねるにあたって、徳山までの三等の汽車賃しか持っていなかった。そして徳山で、妻の父親から秋吉台までの旅費を出してもらい、なんとか目的地に到着できたのであった。帰りの旅費については、鹿児島にいる兄宛に手紙を出して十円を工面してもらうよう依頼。でも、大家族を養っている兄には到底工面できる金額ではなかった。しかし、本間からの紙包みによって、小原は無事に東京に戻ることができたのであった。

小原と本間の出会いは実はこれが初めてではない。小原は、鹿児島師範学校の修身の時間に校長であった泥谷良次郎からキリスト教界の偉人と言われていた本間の話を何時間にもわたって聞いた。それによって、小原はますますキリスト教に興味をもっていった。そして、小原は香川師範学校の教諭時代に、秋吉台を訪ね、本間に会った。そのときのことを小原は著作に「完全に私は本間先生のとりこになりました」と記している。

1923(大正12)年頃の本間俊平
(玉川学園にて)

やがて、本間の予言通り、新宿から小田原に向かって小田急線が開通した。そして、小原は持ち前の行動力を発揮し、今の成城学園がある砧村喜多見の高台の土地を購入。その際に小田急電鉄の土地購入にも協力した。そして、駅名を学校名と同じにする、急行電車を停めるという二つの約束を小田急電鉄との間で取り交わした。さらに小原は購入した土地145,000平方メートルのうち、50,000平方メートルを学校の敷地として寄付し、残りの95,000平方メートルを住宅地として売却し校舎等の建設の資金とした。

小原は、学園都市に相応しく、学校の周りを高級住宅地として販売。なおかつ景観を重視して、道路には桜並木を配し、家の囲いにはコンクリートなどの塀をたてることを禁止した。また、小原の提案をもとに、子供たちの安全を考え、道の曲がり角は通りやすいように、曲りやすいように、角きりがなされている。

駅ができ、学校ができ、住宅ができ、成城学園の町がつくられ、発展していった。本間と小原の出会いによって、現在の成城学園が誕生したといえる。

【参考】本間俊平の略歴

1873(明治6)年

8月15日に新潟県の間瀬村で生まれた。
峰岡小学校に入学し中等科へ進んだ。成績は優秀であり、県からも優等生として表彰された。

1887(明治20)年

家庭の困窮から学校を中途退学し、福島県にて大工の徒弟となった。

1893(明治26)年

北海道庁に勤務し、札幌師範学校校舎建設工事に従事

1894(明治27)年

北海道から歩いて東京へ。東京の大倉土木組に勤務

1897(明治30)年

東京霊南坂教会にてキリスト教の洗礼を受けた。

1900(明治33)年

東京御所造営局に奉職

1902(明治35)年

1927(昭和2)年頃の本間俊平
(秋吉台にて、日曜礼拝の後)

赤坂の東宮御所の造営で使用する大理石を視察するために山口県の秋吉台を訪れた。そこで出会った大理石山の所有者からの強い要望で官庁を辞め、山口県の秋吉村にて長門大理石採掘所を開設した。
本間一家(俊平、妻次子、3人の娘)の住まいや作業場は雨露をしのぐ程度の粗末なバラックであった。
作業場で働く者の多くは、不良少年や刑務所を出所した者たち。本間は、彼らと共に生活し、仕事をし、更生指導にあたった。
そして、教えを乞う若者たちが、彼の家を絶えず訪れた。休みの日には、山や谷を越えて遠くから彼の説教を聞きに来るものも多かった。
やがて採掘所の事業は、数多くの困難を乗り越えて、大理石の需要を海外に輸出するぐらいに拡大していった。現地の大理石産業の礎を築いたといえる。

1930(昭和5)年

東京の多摩全生園を訪れ、らい病患者を励ます。東京にいる間、50日間で100回の講演を行う。

1931(昭和6)年

採掘所を次男に任せ、講演や執筆活動、キリスト教の伝道に専念した。

1940(昭和15)年

玉川学園創立者小原國芳の要請で、興亜工業大学(現在の千葉工業大学)の創立にあたっての設立趣意書の執筆に、政治評論家の徳富蘇峰、作家の武者小路実篤、哲学者で小原の京都帝国大学時代の恩師である西田幾多郎、磁性物理学の世界的権威である本多光太郎らとともに参加した。

1948(昭和23)年

8月13日死去。74歳。

なお、森鴎外の短編『鎚一下』は己なる人物がH君を新橋の停車場で見送る場面が中核となっているが、そのH君のモデルが本間俊平である。

本間俊平と妻次子のエピソード

ある日、本間のところに仕事を求めて一人の男がやって来た。その男は警察官であったが酒がもとで退職し、その後強盗を繰り返し投獄された。刑務所内でも乱暴をはたらき手におえない存在であった。本間はこれまでも数多くの刑を終えた男たちの面倒を見ていたこともあり、その男にも何人かの青年をつけて仕事を与えた。だが、男は短気で怠け者であった。
ある日、男は本間の留守中に、本間の妻次子に、「俺の言うことをきかないやつがいる。ただちに山から追い出してほしい」と迫った。彼女はきっぱりと「善くなったのであればお帰ししますが、悪いとか、言うことをきかないからという理由ではお帰しすることはできません」と断った。すると男はカッとなり、刃物で彼女の左腕を切りつけた。彼女は左腕を右手でおさえながら、「神様。どうか彼を赦してやってください」と祈り続けた。
家に帰ってきた本間は、「お前の罪は赦されたぞ。自分で仕出かしたことは自分で始末しなさい」と言った。男は、本間と次子の態度を見て、自分の非を悟った。そして、次子を背負って病院へ運んだ。男は、本間が妻の看護を自分に任せたことに感激した。このように信頼されたのは男にとって初めてのことだったのである。
この出来事で、男は悔い改め真人間として更生した。後に本間のもとを去ったその男は、本間と同様に刑を終えた者たちの面倒を見るようになった。本間夫妻の命がけの愛が、この男を真人間に変えたのである。

本間俊平先生の雷

(小原國芳著『贈る言葉』玉川大学出版部発行より引用)
【先生の有難くてたまらない一つは先生の雷です。神聖なる義憤です。崇(とうと)き鉄槌です。純一なる叫びです。無垢なる神の怒りです。 (略) 罪は悪(にく)むべきものであるが、それを犯した「人」まで悪んではならないのです。「善人すら往生す、いわんや悪人をや」という貴い気持ちは分らねばなりませぬ。だから雷を落された場合でも、その人を悪まれたのではなく、その悪そのものを先生が粉砕するための雷だということをさとらないものは、雷を落される資格のない人だと思います。人を叱り、人に雷を落す資格もなかなかむずかしいが、また、落される資格、叱られる資格もなかなかと思います。】

本間先生の伝記

(小原國芳著『小原國芳全集28 小原國芳自伝-夢みる人(1)』玉川大学出版部発行より引用)
【完全に私は本間先生のとりこになりました。先生も私を大事な弟子の一人にして下さいました。後年、誰にもお許しにならなかった先生の貴い伝記を出版することを私に許して下さいました。
『秋吉台の聖者本間俊平先生』は、ホントに天下の青年に、否な、我が、六十万の日本教師に味読してもらいたいと念願いたします。】

本間先生と伊藤博文
1923(大正12)年頃の本間俊平
(玉川学園にて)

(小原國芳著『小原國芳全集11 秋吉台の聖者 本間先生/玉川塾の教育』玉川大学出版部発行より引用)
【本間先生が馬関の春帆楼上で故伊藤公爵と会見せられたことがあります。公は非常に先生の人物を惜しまれて、「統監府に出て見る心はないか」とのことでありました。先生は、「公爵閣下、今私が託せられておる可愛そうな青年たちを閣下にお託しいたしましたら、閣下は私に代ってその感化がして頂けますか。私が統監府に出仕すればこの仕事は誰がやってくれますか」と尋ねました。公は賞讃措く能わず、ただ、「本間君ホンマに偉い!」といわれしのみであった。また公爵が、「経済はどうやっている」と問われると、先生は、「神の御用をつとめておるのであるから、みな神さまが下さいます。眼中、経済はありませぬ」と答えられました。「本間君偉い、ホンマに偉い」というのみで、さすがの伊藤博文公も先生の徹底ぶりに感嘆するのみでありました。】

玉川学園礼拝堂と本間俊平

(「学園日記」より引用)
【10月13日(月)晴、礼拝堂献堂式、秋吉台の聖者本間俊平先生が10時1分の電車でおいでになられた。10時半頃より献堂式が開始された。
奏楽、さんび歌、聖書朗読・・・
遂に我等の父、敬愛の的の本間先生にお話をして戴くことになった。・・・(略)・・・
日本の教育を憂えられた先生の非常に熱心なる御心、何と言っても感謝の他はない。先生のお祈り、校歌、祈祷、感激に燃えつつ式は終った。】

1930(昭和5)年10月13日、本間俊平を迎えての礼拝堂の献堂式
本間俊平の主な著書

『労働と信仰』 降文館 1919年
『一石工の信仰』 降文館 1922年
『私の教育』 東京イデア書院(現在の玉川大学出版部)1923年
『私の宗教』 東京イデア書院(現在の玉川大学出版部)1923年
『恩寵の追懐』 東京イデア書院(現在の玉川大学出版部)1924年
『新生命の獲得』 実業之日本社 1932年

参考文献

南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』 玉川大学出版部 1977年
小原國芳著『教育一路』 玉川大学出版部 1980年
小原國芳著『贈る言葉』 玉川大学出版部 1984年
小原國芳著『小原國芳全集28 小原國芳自伝-夢みる人(1)』 玉川大学出版部 1960年
小原國芳著『小原國芳全集29 小原國芳自伝-夢みる人(2)』 玉川大学出版部 1963年
小原國芳著『小原國芳全集11 秋吉台の聖者 本間先生/玉川塾の教育』 玉川大学出版部 1963年
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
鎌田達也著『小田急線沿線の1世紀』 株式会社世界文化社 2009年
今村鎮夫著『信仰偉人伝 本間俊平』 教会新報社 1983年

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