玉川の音楽教育の始まり

2016.10.28

「歌に始まり歌に終わる」とも例えられる玉川の丘での一日

1.音楽による玉川学園の精神的な基礎作り

「音楽」によって、玉川学園の精神的な基礎づくりを、というのが玉川学園創立者小原國芳の信念であり、期待であった。小原國芳著「私の音楽教育八十五年」(玉川大学出版部から1971年に刊行された迫新市郎著『私の音楽教育八十五年-創造性を高める-』のP.202~P.221に所収)には、小原の音楽教育に対する期待が次のような言葉で示されている。「音楽は、すさんだ心をなごやかにし、暗い気持ちを明るくし、悲しみをなぐさめ、疲れをいやし、希望を与えてくれます。この音楽の持つ不思議な力を教育でも十分に利用したいのです」また、「音楽こそは、人と人の心を結ぶきずなとなるものと考えます。教育が、人と人との触れ合いの中にあることを考える時、立派な音楽なくしてマコトの教育はあり得ないとさえ考えます。どうぞ、世界に誇り得る教育が、文化が、民族が、出来上がる日のためにも、音楽の楽しみを、今日、今から大事にしていただくよう祈ります」と。

この小原の期待を受けて、岡本敏明たちが、歌に始まり歌に終わる学園の音楽的環境を作り出していった。創立以来、歌い続けられている『玉川学園校歌』は、岡本が、1929(昭和4)年4月、開校準備が進められている松林の中で数時間で作曲したものである。そして、1930(昭和5)年には、スイスの教育家ヴェルナー・チンメルマンが来園し、数多くのドイツ語の歌や輪唱曲を伝えていった。例えば輪唱曲としてよく歌われる『蛙の合唱』は、チンメルマンから教わった曲に、岡本が日本の子供たちのために作詞をしたものである。

1930(昭和5)年来日時のチンメルマン
1977(昭和52)年、通大生のためのピアノ演奏会

また、牛込にあった成城小学校以来、小原と志をともにしていたオルガンの真篠俊雄、声楽の梁田貞らによっても、玉川の音楽的雰囲気は形成されていった。一方、田尾一一、田中末広、北原白秋らによって多くの歌詞が作られ、学園の生活にマッチした数多くの歌が生まれた。そして、日々の生活の中で、誕生会、クリスマス会、入学式、卒業式といった行事において歌われた。やがて、児童、生徒、学生の合唱は、輪唱、2部合唱、3部合唱、そして混声4部合唱へと上達していった。

2.愛吟集の誕生、そしてパイプオルガンと讃美歌

1932(昭和7)年に「塾生愛吟集」という名称で『愛吟集』が作られた。以後何度となく再版され、朝会、食堂での会食、講堂での集会、礼拝、誕生会など、歌う機会の多い玉川学園の「生活音楽」を支えてきたのが『愛吟集』である。小学生から大学生までが使える歌集は、世界でも珍しい。この『愛吟集』は、現在でも音楽の授業等で使用されている。

毎日の生活の音楽は、それ自体が「美」に通ずる芸術教育であるとともに、それを基底とし、より高い段階に発展していく。また、荘重なパイプオルガンの伴奏による礼拝堂の讃美歌合唱は、その厳粛な雰囲気の中に、宗教を根底とした教育を崇めさせる。

3.競演合唱祭への参加

1936(昭和11)年第10回競演合唱祭

1933(昭和8)年11月19日、第7回競演合唱祭に玉川学園混声合唱団として初参加。結果は、混声部門第1位、総合では第6位であった。当時の競演合唱祭は東京市の主催で、文部省の後援、協賛が国民音楽協会・東京音楽協会などで、合唱団の日本における唯一の登龍門であった。翌年の第8回は混声1位、総合4位、第9回は混声1位、総合2位。第10回は10回を記念して文部大臣賞杯が用意された。そして、玉川学園混声合唱団が総合優勝し、その文部大臣杯を手にすることとなった。翌年、翌々年にも総合優勝した玉川学園混声合唱団は、前例にならってその後の競演合唱祭には出演を勇退した。

4.学園祭と公演旅行

1935(昭和10)年の玉川学園祭

1935(昭和10)年2月10日、九段の軍人会館において「学園祭」を開催した。プログラムは、上野耐之の独唱、玉川学園混声合唱団の合唱、小学生の学校劇「苺の国」、満州国留学生の無言劇、漫画映画、劇映画「少年探偵団」などであった。翌1936(昭和11)年2月9日に同会場にて「玉川学園祭」を開催。プログラムは、玉川学園混声合唱団の合唱、学校劇「青い鳥」、デンマーク体操の実演、劇映画「宝島」などであった。

1936(昭和11)年の東北地方公演旅行

2年にわたる「学園祭」の成功は、地方公演旅行を生み出した。それは玉川の体操と音楽を主とした公演旅行で、小原國芳の講演と併せて行った。1936(昭和11)年4月28日より5月7日にかけて東北地方公演旅行が実施された。秋田における公演旅行の途上、土地のわらべ歌からヒントを得て『どじょっこ ふなっこ』が作曲され、次の会場でこの歌が披露された。7月には九州地方、翌年2月には東海地方でも開催。1938(昭和13)年10月26日より11月2日にかけては京都・大阪・和歌山等で8回の公演、1940(昭和15)年には、朝鮮・満州の皇軍慰問公演旅行が実施された。

翌1941(昭和16)年の3月には日立・土浦方面、5月から6月にかけては九州地方、この途上で『汽車ポッポ』の輪唱や、『小原節』の編曲など現在に残る多くの歌が生まれた。1943(昭和18)年、日本交響楽団建艦資金献納音楽会、『第九交響曲』の地方公演が名古屋・大阪で8回にわたって開催された。この折にも、吹田・天王寺等で体操・音楽の公演が併せ行われた。このように全国にわたって行われた公演旅行は、戦局の悪化とともに、それ以降中止のやむなきにいたった。

5.ベートーヴェンの「第九交響曲」

1936(昭和11)年5月日比谷公会堂での第九の演奏

毎年、大学音楽祭で演奏されているベートーヴェンの「第九交響曲」。大学1年生全員による合唱は、学生たちに感動を与えている。一部の生徒ではあったが、玉川学園として「第九」に出演したのは、1936(昭和11)年5月28日、日比谷公会堂で開催された「オリンピック蹴球選手送別音楽会」においてのことであった。この時、成城学園合唱団とともにステージに立った。

1937(昭和12)年5月日比谷公会堂での第九の演奏

しかし本格的に玉川学園の生徒が舞台に立ったのは、その翌年、1937(昭和12)年のことであった。この時のことについて、小原國芳が次のように記している。「昭和12年、ローゼンシュトックさんや新響の方々の依頼で、ベートーヴェンの第九交響曲『合唱付』の舞台に立つことになりました。国立音楽学校さんが数十名、私たち玉川は中学生以上二、三百名全員が出させていただきました」と。小原にとって生徒たちに「第九」を歌わせることは、「世界の名曲を歌えた喜び、舞台に立てた喜び」を持たせることであり、それ自身「大きな教育」であった。翌1938(昭和13)年からは、毎年のように新交響楽団との演奏会は続き、恒例になっていった。

1962(昭和37)年12月16日の文京公会堂での玉川学園音楽祭

合唱、オーケストラ、指揮等を玉川学園の教員、学生・生徒、卒業生だけで行った第九交響曲の公演は、1962(昭和37)年12月16日のことであった。場所は文京公会堂。玉川大学のオーケストラが第4楽章を演奏し、教員である谷本智希が指揮を行い、独唱は学生と卒業生。合唱は、大学生と高等部生1,500名。奇しくも、12月16日はベートーヴェンの誕生日であった。

6.玉川学園の音楽教育の基礎を築いた先生方

玉川学園の音楽教育の基礎を築いた先生方について、玉川大学名誉教授の石橋哲成氏は次のように述べている。「小原國芳先生は成城小学校で若き眞篠敏雄先生と出会い、その眞篠先生を通して、梁田貞先生、さらに岡本敏明先生を知ることになった。この岡本先生との出会いが、戦後さらに成田為三先生、小山章三先生を玉川の同人にすることになった。その後、これらの先生方の実践を受けて、西崎嘉太郎先生、迫新一郎先生、小宮路敏先生、山下成太郎先生等へと輪が広がって、現在の玉川音楽教育の基礎が築かれた」と。

主な作品

岡本敏明 「校歌」(作曲)、「学生歌」(作詞)、「朝の歌」(作詞・作曲)、「どじょっこふなっこ」(作曲)、「玉川学園体操歌」(作曲)、「玉川学園運動会歌」(作曲)、「蛙の合唱」(作詞)

梁田貞 「村の道ぶしん」(作曲)、「月」(作曲)、「沖の小島」(作曲)、「城ケ島の雨」(作曲)

田尾一一 「校歌」(作詞)、「玉川学園体操歌」(作詞)

田中末広 「沖の小島」(作詞)、「月」(作詞)

北原白秋 「玉川学園運動会歌」(作詞)、「城ケ島の雨」(作詞)、「この道」(作詞)

成田為三 「浜辺の歌」(作曲)

小山章三 「ゆうやけこやけ」(作詞・作曲)、「だるまさん」(作詞・作曲)

西崎嘉太郎 「われら愛す」(作曲)、「おめでとうたんじょうび」(作曲)

迫新一郎 「上がり目下がり目」(作詞・作曲)、「歩け若人」(作詞)

小宮路敏 「歩いてゆこう」(作曲)、「公園のベンチ」(作曲)、「毛虫が三匹」(作曲)、「歩け若人」(作曲)

山下成太郎 「山に寄せて」(作曲)

参考文献

  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 小原國芳著「私の音楽教育八十五年」(迫新市郎著『私の音楽教育八十五年-創造性を高める-』玉川大学出版部 1971年 のP.202~P.221に所収)
  • 藤井百合著「小原國芳と音楽教育―玉川学園の第九と共に歩んだ道(Ⅰ)―」(『論叢』10号 玉川学園女子短期大学 1986年 に所収)
  • 藤井百合著『小原國芳と音楽教育―玉川学園の第九と共に歩んだ道(Ⅱ)―』(『論叢』11号 玉川学園女子短期大学 1987年 に所収)
  • 石橋哲成著「玉川学園における『第九』演奏の歴史」(『新教育運動の展開、小原國芳の全人教育思想、そして玉川学園の教育』 玉川大学学術研究所 2013年 に所収)
  • 三笠宮寛仁著『皇族のひとりごと』 二見書房 1977年
  • 南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』 玉川大学出版部 1977年

参考

三笠宮寛仁著『皇族のひとりごと』(株式会社二見書房発行、1977年)の「音楽」の項(P.311~P.315)に玉川学園の音楽のことが記されている。

「私がスキー部四年のとき、部内に一般斑、つまり指導、普及をする斑を持っている都内大学四校を集めて、四大学の合同合宿をやってみたことがあるが、このときも食事の席につくと、食べる前に、彼らは、やおら全員で歌をうたいはじめ、それがなんの指示もないのに、ちゃんとパートパートで決められているようで、パチッときまる。たいそうくやしい思いをしたものである。」

また、同書の同じ項に、1963(昭和38)年1月、オーストリアから招聘のスキー教師による白馬山麓親ノ原スキー場での玉川学園中学部・高等部および玉川大学のスキー学校での出来事が次のように記述されている。

「最終日になって、講習は全部終り閉会式の前に、それまでコーチをしたオーストリアの三名の教師と、日本側のコーチとアシスタントの最後のデモンストレーションになった。スキー場のいちばん下の平地に数百人の玉川学園の講習生が整列して見守るなかを、オーストリアの三名を先頭に十数人の先生たちが、華やかにウェーデルンで次から次へとトレーンをえがきながら演技をして、平地のところまで滑りおり、講習生の前でピタリと全員が止まった。そのときに、一斉に数百人の講習生が、ベートーベンの第九の大合唱を始めたのだそうだ。
大自然のなかで、しかも閉会式という場で、ピアノとかオーケストラでなしに、数百人の人間の生の声が、第九を合唱するということの迫力は、見ていない、聞いていない私ですら、空おそろしくなる感動であろうとは想像がつく。そしてオーストリアの教師を始めとする全コーチは、全員があまりの感激のため、涙が止まらなく、ヒザがふるえはじめたということだ。人間の感動というのは素晴らしい設備のステージで、音量調整で、名人達人の音楽を聞くこともいいだろうが、このような玉川学園のやり方のほうに、より人間らしい感動があるのではないだろうか?」