山口先生:「平等について」Vol.1:平等に関する質問

2017.12.06

筆者は研究科の授業で「教育哲学」を担当しており、以前このコラムで「正義の源流」について記したことがある。今回も授業の一部を紹介する形で、正義概念のひとつである「平等」について論じてみようと思う。

教育現場ではよく先生達が「人は皆平等です、平等でなければなりません」というようなことを声高に語る。筆者も耳にタコができるくらい聞かされた記憶がある。事実、「平等」という語はドラマ水戸黄門に出てくる「葵の紋所」のように人々を平伏させる力を有しており、それに逆らう教育者はまずいないだろう。だが教育現場で「平等」を語るのはよいがその内実をきちんと理解しているだろうか。そこでちょっと考えてみたい。もし読者が学校の先生であったとして、この言葉(「人は皆平等です、平等でなければなりません」)を子供達の前で吐いたとしよう。その時にある理屈好きな生徒が次のような質問をしてきたとしたらどのような返答をされるだろうか。

  • A:
    どうしてそんなことが言えるのですか?◯◯君の家はお金持ちなので旅行にもたくさん行ってますが、僕の家はお金がないので東京ディズニーランドにすら行きたくても行けません。これが平等と言えるのですか?
  • B:
    先生は、クラスの皆に「みんな違っていいんだよ。みんな個性は違うのだから。」と言いますよね。平等とは英語で言えばequality(同じ、イコール)のはずですが、「違うはずの皆」が「皆同じ」とは矛盾していませんか?
  • C:
    「男女平等」と言われますが、食堂で見かける「食べ放題:男性は3000円、女性2000円」は平等なのですか?また「男らしさ、女らしさ」は男女不平等に繋がるのであまり言ってはいけないそうですが、それはなぜですか?
  • D:
    ある仕事で10の働きをした人が日当1万円もらう場合、その半分の5の仕事しかしなかった人の日当は、5千円それとも1万円、どちらが平等なのですか?
  • E:
    「人は皆平等」であるならば、先生と生徒も平等ですよね。それならば先生に対する口の利き方も友達と同じように「タメ口」でいいですよね。

生徒からのこうした問いに明確に答えることができるだろうか。「人は皆平等です、平等でなければなりません」と言うだけであれば、教師でなくても言えることである。しかし、プロの教育者であるならば、平等に関する上記のような質問が来た場合、論理的な返答が必要となる。こうした返答を支えるものとして哲学がある。哲学とは「〇〇とは何か」という形で、その本質や原理、すなわち一性(いつせい)を問う学問である。それゆえ、「平等教育」を行うためには、「平等とは何か」を自ら問いそれに対する理論を有しておかねばならない。平等の内実をイデオロギーに流されることなく学問的に理解しておくこと、それがプロの教育者である所以でもある。
上記A~Eの問いに明確に答えられるよう、以後3回にわたって「平等」の基本的な意味について語っていきたい。(続)