岩田恵子先生二人称的子ども理解がひらかれるとき

2021.04.01

保育への二人称的アプローチ

ヴァスデヴィ・レディ(2015)1 は、子どもが世界と二人称的にかかわりあう驚くべき世界があり、そのような驚くべき世界は、大人が子どもに二人称的にかかわりあうことによって見えてくると述べています。レディは、この二人称的なアプローチで、発達という現象を根本から捉え直すことを試みていますが、さらに、この二人称的眼差しを保育の場に向けるとき、子どもや子どもがかかわる豊かな世界がみえてきます 2 。そもそも、保育は、本来そのような二人称的なかかわりあいが豊かにある場であるとも言えるかもしれません。

けれども、保育の場で、子どもが世界と豊かにかかわりあっている子どもが見えないことを嘆く声を伺うことがあります。保育で悩んでいることを伺うと「トラブルが多い」「もう○歳なのに、叩いたり、噛みついたりする」「遊びが単発的で持続しない」「次の活動への切り替えが難しい」「話し合いでも自分の思いばかり言う」「わからないことがあるとすぐ結果を知りたがる」「集まりに参加できない子がいる」「どうしたらこの子がちゃんとできるのか」と、次々に出てきます。

このように、子どもが「○○できない」ということへの不安は、保育者にとって、自分の保育の力量不足とも感じられ、悩みはますます大きいものとなるようにも感じられます。また、子どもに「こう育って欲しい」という願いを抱いているからこそ、真面目に「こう育てなくては」と責任感を感じているからこそ、子どもの「まだできないこと」に焦点があたり、このような姿が見えてしまうともいえそうです。そのことは、このような悩みをおっしゃる先生の園での保育を見せて頂くと、「これで良いですか」「大丈夫でしょうか」と、正解を求めているかのような確認をよく求められることからも、わかります。ここで見てきたような子どもの見方や保育の見方は、どこかに正しい子ども像、発達のあり方、保育のあり方を想定している「三人称的理解」「あたまで考える」わかり方であるといえます。

二人称的かかわりあいが見えてくるきっかけ

この「三人称的理解」「あたまで考える」ような「三人称的かかわり」から「感じてわかる」ような「二人称的かかわりあい」によって子どもの世界が見えてくるのは、どのようなプロセスなのでしょうか。

ある園でのそのきっかけは、それまで気がついていなかった「子どもの声」に聴き入り始めたことでした。それまでは、「年長さんなのに、遊びや活動が全然長続きしない」と悩んでいらしたのですが、ある日、私が、お邪魔したときの遊びの時間の終わりに、プラスチックカップや色紙を使ってジュースつくりをおもしろがっている子どもたちの姿がありました。その子どもたちのおもしろがっている様子を、園長先生、担任の先生と振り返りながら、「あの子たちもっと遊びたそうでしたね?」「あの遊びが、どんなモノや場所があると続くでしょうね?」「冷蔵庫があるといいかな?」などとお話しして、私はその日、保育園をあとにしました。

そして、その次に保育園にお邪魔した日の朝のことです。お目にかかるやいなや、園長先生が、「前回のジュースづくりがどんどん繋がっていったんです!」とすごい勢いでお話しを始めました。語られたのは次のようなことでした。

ジュースをたくさん作り、たくさん作ったそれが「ジュース屋さん」になり、役割を交代して楽しんでいるうちに、夏祭りの経験などもあって、ジュース屋さん以外のお店も作られてきたこと(それにはジュースづくりが続くように、保育者が工夫して作ったものづくりのコーナーの影響もありました)。そして、たくさんのお店ができてきたら、自然に子どもたちから「もっとたくさんお店を出して、年下の子どもたちを招待したい!」という声が出てきたこと。ちょうどそのタイミングで、たまたま担任の先生がお休みのときがあり、今までの経緯を知らない先生が、「どんなお店を作ってちいさい組さん招待したいの?」と尋ねたところ、子どもたちは口々に語り始め、その内容を整理するのに、みんなで1時間もの会議をして、具体的に日程、準備のプロセス、お店の配置など様々なことを決め始めたこと。そして、その会議の様子を聞いた担任の先生は、みんながそのように長い時間具体的に話し合ったこと、さらには、その話し合いで大活躍していたのが、彼女が「集まりに参加できない」と気にかけていた子どもであったことに感激し、そのあとは、さらに具体的な「お祭りのプラン」を、子どもたちみんなと先生で「よりよいもの」を話し合うようになっていったこと。さらに、子どもたちが、お家でこの遊び、計画のことを話し、保護者が、廃材などを持ってきてくれるようになったこと。

というように、子どもたちの姿、子どもたちがやろうとしていることを、先生方が驚きをもって見つめ、「共に」考え始めたことが、本当に勢いよく語られました。

このエピソードでは、子どもたちがおもしろいと思う活動がつながっていくこと、その継続性に気づくことから、子どもの声が聴こえ、姿が見えてきました。そして、それを「すごいね!」「おもしろいね!」と保育者が受けとめることから、自然に、子どもが次に探究に向かおうとしていることも感じとり、わかろうとする姿勢が生じていきました。また、子どもがしたいことを実現しようとする環境、継続できる時間の工夫も、保育者から自然に生じてくるようにもなりました。さらに、このような活動が始まると、これまで問題と思えていた子どもの姿が変わって見えることも生じていました。これらの変化は、子どもの活動の継続性が生まれ、保育者のスタンスが、その子どもたちの活動の継続性への参加に変わったことによります。それは、“よさ”を共に探究する営みでもあり、子どものこと、子どものアイディアが「素敵」と語る文化ともなりました。

「子どもの声」に聴き入ること

保育者にこのときのことを振り返ってもらったとき、「子どもたちが他者の話に耳を傾けるようになり、理解しようとする姿が増え、相手を受け入れ、トラブルも減った」「何があっても話し合えば解決できるようになり、解決までの時間も短くなった」「低年齢児のことをより気にかけて、わかりやすい言葉で説明や援助をし、関わりが深まった」「わからないことがあると調べようとする姿が増えた」など、子どもたちが、本当に素敵に成長したと語られました。

ただ、私から見ると、子どもたちが変わったというよりも、保育者が、当初の「あたまで考える」三人称的な見方から変化し、「感じることでわかる」二人称的な見方が生まれてきたことによる出来事のようにみえました。保育者の視線が、子どもたちは望ましいことが「できている?できていない?」という評価の視点から、子どもたちと「共に」わからないことへ向かう姿勢になっていたのです。

また、子どもたちの今まで知らなかった姿が見え、アイディアがどんどん生まれてきたとき、先生たちは、自然にそのことに感心し、讃えることばが自然に生まれ、「一緒に楽しいね!」と共感しあっていました。これが、まさに二人称的、情感的かかわりだと思います。対象の訴え(needs)にいつでも応答する関係の中で、心が揺り動かされ対象への情感が生まれることで、対象を深く「理解する」「知る」ことが可能になっていくのだと捉えられます。

このような子どもの声に聴き入ることからひらかれる二人称的子ども理解は、この1年以上にわたる新型コロナウィルス感染症の対応を迫られる中で、より重要なものとして見えてきました。日常の生活の工夫、行事をどのようにするのかの工夫も、子どもの声に聴き入りながら、子どもたちと共に、さらには保護者と共に進めている実践事例を伺っています。むしろ、今回のような状況だからこそ、その営みの大切さがより見えてきたように感じています。今後さらに、子どもが対象と出合い感じることで対象を知っていくプロセスと、保育者がその営みをどのように感じ、子どもを知ろうとしていくのか、情感的かかわりの中の感じることの二重構造を明らかにしながら、保育という営みの中での子どもたちの学びと育ちについて探究していきたいと思っています。

  1. ヴァスデヴィ・レディ (佐伯胖,訳).『驚くべき乳幼児の心の世界:「二人称的アプローチ」から見えてくること』ミネルヴァ書房.2015年
  2. 岩田恵子.「観察する記述」から「感じとる記述」へ:二人称的記述から見えてくる赤ちゃんがケアする世界.佐伯胖(編著)『「子どもがケアする世界」をケアする:保育における「二人称的アプローチ」入門』ミネルヴァ書房(pp. 79-126),2017年