山口意友先生:教育の目的はなぜ人格の「完成」なのか?(2)人格の完成か、人間性の開発か

2021.10.18

旧教育基本法制定の審議において、教育刷新委員会から「教育基本法案要綱案」(昭和21年11月29日)が出されましたが、そこで「人格の完成」と「人間性の開発」という文言が以下のような形で出てきています。この「人間性の開発」という語は、平成18年に民主党案で示された「人格の向上発展」と同じように到達可能な教育目的として考えられます。詳細を確認しておきましょう。

「教育基本法案要綱案」
(前文)教育は.真理の開明と人格の完成とを期して行われなければならない。(以下略)
(本文)〔教育の目的〕教育は、人間性の開発をめざし民主的平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義とを愛し個人の尊厳をたっとび、勤労と協和とを重んずる、心身共に健康な国民の育成を期するにあること。

要綱案では、前文に「人格の完成」が、そして本文の〔教育の目的〕で「人間性の開発」が用いられていますが、これは後に当時の文部大臣田中耕太郎の強い意志によって置き換わることになります。(註2)なぜ「人間性の開発」が廃され「人格の完成」が教育の目的とされたかを知るには、田中の考えを理解しなければなりません。田中は自著『教育基本法の理論』で次のように言います。少し長いのですが、ここは重要な点なので引用しておきます。特に着目すべきは「自由」という語です。

教育基本法第1条は「教育は、人格の完成をめざし」といっている。・・・しからば人格とは何を意味するか。人格とは自然的人間とは異なった観念である。人間は物理的および精神的の二要素から成り立っている。前者は人間が他の動物と共通にもっているものであり、後者はこれに反して人間に固有なものである。人間は他の動物と同じように、自己保存や種族保存の本能を満足させ、また感覚的快楽を追求する。この点で人間は自然法則つまり因果律に支配され、自由をもっていないのである。しかし人間はこれだけで満足しないで、本来理性と自由を与えられている。この理性と自由意志によって人間は自然界や人間社会における事象の間の原因結果の関係や、事物の本質を探究し、正不正、善悪の区別をなし、正および善に従って行動し、不正と悪をさけまた美醜を区別し、美を愛好し醜を嫌悪するのである。この場合に人間は因果律を克服して道徳その他より高い要求に従って行動する。・・・要するに人格は人間が他の動物と異なって備えている品位というべきものである。・・・人格は自由と分離すべからざる関係にある。人間が本能、衝動、情欲等を制御克服し、道徳的に行動する場合において、自由であり、自主的である。・・・以上のべたところによって人格は、教育基本法第一条の前身ともいうべき教育刷新委員会の建議中にいわれている「人間性の開発」の人間性と同じ意義のものではないことがわかる。・・・人間性の開発という表現は現実の人間性を意味するものと誤解される懸念があるから、人格の完成を以て一層適当とするのである。(田中耕太郎『教育基本法の理論』72~78頁参照)

このように田中は人格を自由の概念によって説明し、「人間性の開発」よりも「人格の完成」が教育の目的としてより適当であることを示すわけですが、こうした田中の言は、理性という道徳的な自由意志を駆使することで、自然因果律に基づく本能的な満足や感覚的快楽から切り離された、その完全性を教育の目的に据えるべきとの考え方です。

とは言え上記の田中の言を正しく理解するには、自由概念の倫理学的意味、すなわち欲望の自由とは異なる道徳的自由の意味を知っていなければなりません。なぜなら、上記引用で記した「自由」を我々が通常有している「欲望の自由」という意味で読もうとしても全く理解不能になるからです。試しに上記の「人間が本能、衝動、情欲等を制御克服し、道徳的に行動する場合において、自由である」という部分の自由を「欲望の自由」に置き換えてみると、全く矛盾した内容になって理解不能となってしまいます。

実は、こうした田中の自由概念はカント倫理学に依拠していると考えて間違いありません。事実、敬虔なカトリック信者である田中は、「我々はクリスト教道徳やカントの倫理学において認められる倫理の心情の方面を強調する必要を感ずるのである」(同書17頁)と語っています。そこで次にカントが示す道徳的自由の概念について確認しておきましょう。(2/4回.続)

  • (註2)
    実は教育の目的を「人格の完成」とするか「人間性の開発」とするかについては、激しい議論が繰り返されています。詳細については、杉原誠四郎『教育基本法の成立-「人格の完成」をめぐって-』日本評論社1983年 97頁~145頁が参考になります。