山口意友先生:教育の目的はなぜ人格の「完成」なのか?(3)欲望の自由と道徳的自由

2021.10.25

そもそも自由について考える場合、最初に押さえておくべき点は「他から拘束を受けない(他から切り離されている)」ということです。教師が「今から自由時間にする」と言えば、友人との私語や携帯電話の使用など好きな事(=欲望の自由)をすることができます。これは、「授業中は私語厳禁、携帯電話使用不可」という暗黙の規範から拘束を受けなくなることを意味します。また憲法が保障する「表現の自由」とは好き勝手に表現してよいというよりも、「国家権力から拘束を受けない」ことを意味します。

では、道徳的自由とは何から切り離されているのでしょうか?それは、第一には自然的な本能や欲望から切り離されていることを意味します。それゆえ、好きな事をやってよいという「欲望の自由」とは真逆の意味となります。我々は欲しいものがあればそれを手に入れようとします。その意味で動物と同様に本能や欲望に支配されていると考えられます。しかし動物と異なる点は、そこに自らの本能や欲望に逆らう意志、すなわち道徳的に自由な意志の存在(=理性)があるという点です。こうした本能や欲望の拘束から切り離された意志の存在が道徳的自由の可能性を示すことになります。つまり、動物は欲望という自然本能にそのまま従って行動する以上、道徳的自由(=理性)は持ち得ない。しかし、人間は本能的な欲望から切り離された「道徳的自由」の想定が可能ということになります。これがカントの言う自然因果律からの独立、すなわち道徳的自由の消極的意味です。

さらに道徳的自由には「自己立法」という積極的な意味も存在します。これは、自然の因果系列から切り離された第一原因という要素が強く、他者ではなくて自己が立てた法則に自らが従うという観点です。例えば、伝統や法律が「人様の物を盗ること」を禁じているから、それに従うというのではなく、自らが行動規範(格率)を立ててそれに自らが従うということです。その規範を立てる際に、自らの意志が因果系列の結果としてではなく第一原因として働くこと、すなわち、他律的・受動的な意志規定ではなく、自己立法による能動的な意志規定が道徳的自由の積極的意味です。

このように人格の完成という目的達成のためには、道徳的自由、すなわち意志の自律の存在が必須となるのです。さらにカントは、『単なる理性の限界内における宗教』という著作の中で、人間の素質を、①「生物としての人間の動物性の素質」、②「生物であると同時に理性的な存在者としての人間性の素質」、③「理性的であると同時に引責能力のある存在者としての人格性の素質」の三つに区分します。ここで示された三つの素質は、教育基本法における教育の目的が「人間性の開発」ではなくて「人格の完成」となった理由を理解するには有用です。恐らく田中耕太郎もカントのこの3区分を知っていたのではないかとも考えられます。

人間が持つ「動物性」の素質とは、自己保存、種族保存、社会性を求める衝動など極めて自然的なもので、これらは動物と何等変わりないものとされます。「人間性」の素質とは、自然的ではあるが他人との比較から生じる自愛に基づいているものとされます。そして「人格性」の素質は、「道徳法則に対する尊敬の感受性」(道徳的感情)であり、この素質は、「それ自身として実践的な、すなわち無条件的に法則を与える理性をその根として持つ」とされます。単純化すれば、「動物性=自然本能」、「人間性=自然本能+理性」、「人格性=理性」という形です。

このようにカントは、人間に備わった自然的な本能や社会的な欲求の存在を認めつつも、人格性の素質を顕在化させていくことの必要性を示したのであり、こうした態度は『教育学講義』においても一貫しています。カントは『教育学講義』において、教育を自然的教育実践的教育に分け、「実践的教育、すなわち道徳的教育とは自由に行為する存在者のような生き方ができるよう人間を陶冶するところの教育である。実践的教育とは人格性への教育である」と述べています(註3)。このように見てみれば、カントの人格概念が、田中耕太郎を通して「人格の完成」という教育目的の成立に影響を与えたと解釈することが十分に可能なのです。(3/4回.続)

  • (註3)
    カントが示す「実践的」とは、通常、我々が用いる「実際に行動する」という意味ではなくて「意志を規定する」という意味です。