山口意友先生:教育の目的はなぜ人格の「完成」なのか?(4)人格の完成と教育の無限性

2021.11.01

このように人格の完成が道徳的自由(自律)に基づくものと理解していれば、道徳教育(人格教育)のあり方にも影響を及ぼします。例えば「ボランティアに行くことは善いことだ」というような行為だけのレベルで道徳を論じるのではなく、自由意志を行使しているかどうかの内面(動機)の問題に立ち入ることの必要性に気づくことができます。すなわち、ボランティアをする際の動機は内申書を上げるためなのか、それともそうした欲望から切り離された純粋な意志に基づいているのか。また単に先生から命じられたから行くのか、それとも自分の意志で行こうとするのか、というような内面の問題です。

ただ、ここで一つ注意しておかねばならないことがあります。これはカントも示しているのですが、人間の心底には常に欲望がつきまとい、たとえ下心がないと自ら思っていても、自覚していない潜在的な下心があるかもしれず完全な欲望の排除は不可能であるという点です。これは道徳的自由(自律)の完全なる行使、すなわち人格の完成は、人間にとって不可能であることを意味します。それゆえ、人間にできることはその完全性に向かっての無限の道徳的進歩の必要性ということになるのです。

人格の完成という教育目的を掲げることは、必然、教育目的への到達は不可能であることを意味し、それゆえ残された道は「無限の道徳的進歩の必要性」ということになりますが、この「無限の道徳的進歩」の重要性・必要性は、仮に教育の目的が「人間性の開発」のような到達可能なものであったらどうなるかを考えてみると分かりやすいでしょう。もし、教育の目的が「人間性の開発」であった場合には、昨日の自分より今日の自分が人間的に成長したとすれば、そこで教育目的は達成されたことになります。このことは同時にもう教育は不要だということにもなりかねません。しかし「人格の完成」が教育目的であれば、たとえ昨日より今日の自分が人間的に成長したとしても、まだ完全ではありません。それゆえ今後も教育が無限に必要だという意識が生じることになります。このように人格の完成という教育目的は、それが到達不能な超越的理念である以上、「教育の無限性」を惹起することになります。

以上、「人格の完成」の内実について論じてきましたが、最後に「人格の完成」と同型構造をとる「生きる力」との関係について述べておきます。「生きる力」とは、周知のごとく「確かな学力」(知育)、「豊かな人間性」(徳育)、「健康・体力」(体育/食育)の三者が合わさったものです。「人格の完成」も、教育基本法第1.2条が示すとおり、知育、徳育、体育/食育によって到達すべき教育目的です。そこで一つ疑問が生じます。人格の完成と生きる力はどう違うのか?という問いです。生きる力とは人格の完成をいわば具体化したもので、特に学習指導要領において示されるものですが、両者の関係性についての疑問は至極まっとうな問いです。

これについての問いは、下記のように解釈すればよいと思われます。生きる力は、質的にも量的にも増やすことが可能です。つまり、昨日解けなかった数学の問題が解けるようになった。昨日まで恥ずかしくてできなかった電車での席譲りが今日はできるようになった。昨日より体力が増大した。こうしたことが生じれば生きる力を増やしたことになります。つまり、生きる力とは「人間性の開発」と同様、到達可能な具体的な教育目標、すなわち知育、徳育、体育/食育による教育目標です。しかしどれほど生きる力を増大させたとしてもまだ完全ではありません。それゆえ、日々、生きる力を増やしながら人格の完成という完全性の理念に向かうことが教育の目的である。このように理解すると一番すっきりするのではないでしょうか。(4/4回.終)

参考文献

「人格の完成」に関する詳細を知りたい方は、本文でも引用した、田中耕太郎『教育基本法の理論』(有斐閣1961年)や杉原誠四郎『教育基本法の成立-「人格の完成」をめぐって-』(日本評論社1983年)を読まれるとよいでしょう。また人格概念、自由概念の倫理学的な意味についてはカントの『道徳形而上学の基礎づけ』や『実践理性批判』が参考になります。なお、拙著『教育の原理とは何か〔改訂版〕-日本の教育理念を問う-』(ナカニシヤ出版 2017年)でも、上記本文の内容も含めて「人格の完成」について詳細に論じていますので、もしよろければそちらも見られてください。