田甫綾野先生ライフストーリー研究の魅力

2022.06.09

「質的研究」と言われる研究方法が、一定の価値を認識されるようになってきていますが、まだまだ、統計的手法を用いる研究や、文献研究のように、広くその価値が認識されているとはいえません。その中でも特にライフストーリー研究は、「人の記憶なんて曖昧」「その人が語ることが真実かどうか分からない」というようなことを言われることが多いように思います。

私は修士論文からインタビューを中心に研究しています。二十数年前、社会学の分野ではライフストーリーやライフヒストリーと言われる研究方法について、かなり議論されるようになっていて、私もライフストーリーやライフヒストリーを主とする社会学のゼミにずっと参加していました。しかし、教育学の分野ではほとんど注目されていない研究方法で、かなり珍しかったと思います。そのような中でライフストーリーに興味をもったのは、研究を進めていく過程でのことでした。

「事実」とは何か?

私は大学3年生の夏休みに、アメリカのワシントンDCで短期の語学留学をしたのですが、その際、議会図書館(Library of Congress)の日本セクションでボランティアを行うこととなりました。そこには戦時中の日本の児童書が未整理のまま所蔵されており、その目録を作るためのお手伝いをさせていただきました。初めて目にする戦時下の児童書は、現代の絵本などとは異なる雰囲気のものであり、時代や社会が違えば、子どもに与えられる児童文化財も変わってくるのだと、改めて実感し、戦時中の子どもの生活や遊びに興味をもちました。

そこで、卒業論文では「学童疎開における子どもの生活と遊び」について取り上げることにしました。学童疎開関連の本を読んでいくと、当時の子どもたちの置かれた状況の厳しさを理解することができました。しかし、当時の子どもたちが書いた作文や親に宛てた手紙などを見ると、そのほとんどが、「元気で楽しく過ごしている」「お腹いっぱい食べている」というようなものでした。それには理由があり、手紙は全て先生によって検閲されていて、親が心配するようなことを書くことが許されず、本当の気持ちを書くことはできなかったのです。文字として残された記録は「事実」として捉えがちですが、それは本当の子どもの気持ちを記したものではなく、さまざまな状況の中で作られた「事実」に過ぎないということに直面しました。

インタビューからわかったこと

そこで修士論文では、当時の経験者から話を聞くことにしました。当初、実際にはどのような生活をしていたのか、どんな遊びをしていたのか等を聞きたいと思っていたのですが、当時の生活や遊びの「事実」はあまり新しい話を聞くことができませんでした。しかしながら、当時の体験をどのように語るかということに焦点を当てると、さまざまな捉え方が見えてきました。過酷な体験を語り戦争の悲惨さを語る人、また当時の過酷な体験は今の自分を形成するために不可欠な経験だったと語る人、子どもであった自分さえも戦争加害者として語る人・・・どれが事実かというと、どれも「事実」です。戦争という過酷な体験をした人が、自分の人生の中でその経験をどう語るかということを明らかにするためには、その一つ一つの「事実」を明らかにすることが重要であることに気がつきました。つまり一つの「真実」が「事実」ではないということに。

聞き手と語り手の相互作用から生まれるライフストーリー

このような研究の経験を通して、私はライフストーリーやインタビューを研究の中心とするようになりました。それは、自分の中で、この研究方法のおもしろさや魅力を感じているからです。統計的に物事を捉えその傾向を見ることも研究として重要ですが、統計では測れない人々の声を聞き、それを明らかにすることもまた必要な研究であると思っています。そこに私はライフストーリーのおもしろさを感じています。

ライフストーリー研究の魅力に、相互作用性というものがあります。ライフストーリーは、聞き手である「私」と語り手である調査対象者との相互作用で紡がれていくものです。調査対象者が「真実」を持っていてそれを語っているわけではなく、聞き手である「私」が語り手にとってどのような存在かによってその語り方も変わってきます。

大学院生の頃は、年配の調査対象者の方が、若い院生にいろいろなことを伝えようとしてくださったように思います。それは人生の先輩としての話がたくさん含まれていました。博士論文では戦後の幼稚園をめぐる制度改革と保育実践との関係を当時の保育者のライフストーリーから明らかにしたのですが、その中で印象的な出来事がありました。戦後の幼稚園教育を牽引してきた当時の保育者であるA先生にインタビューをしたのですが、A先生は幼稚園教育の地位向上のために努力し、皆に認められたということの自負を語るストーリーの中で、自分が結婚や出産という「女性としての生き方を全うしなかった」として、その後悔を語られたのです。そして、当時大学院生だった私に「結婚して子どもを産みなさい」とおしゃいました。素晴らしい業績をもち、当時としては珍しく男性にも負けない仕事をしてきたことを語られた「かっこいい」女性という印象であった(私にとって憧れのような存在であった)A先生にそのようなことを言われ、当時の私は大きなショックを受けました。しかし、それがA先生のライフストーリーであり、その語りからは職業的成功のストーリーの裏にある女性としての苦悩が垣間見られます。そしてそれはA先生だけのことではなく、当時の保育者のおかれていた立場や、女性の生き方を表しているともいえます。

ライフストーリー研究の魅力

そういうストーリーに触れると、それこそが人の生きていく過程の中で重要なことであると思うし、職業人としての「ライフ」にはプライベートな「ライフ」も影響していることが分かります。それらをひっくるめてのその人の「ライフ」です。保育者の歴史を見るときにも、保育者という職業の特徴や当時の保育者の置かれていた状況が、そのライフストーリーによって理解できるのです。

このストーリーは当時に20代半ばの若い女性である私だから聞けた話であり、大学の教員となった今なら、聞けなかった話かもしれません。また今の私ならもっと別の話が聞けたかもしれません。そういう意味で、「今の私」にしかできない研究というところも、ライフストーリー研究の魅力だと思っています。