石井恭子先生境界を超えて見えるもの

2024.04.03

幼児教育の姿から小学校の当たり前を見直す

幼小連携研究に関わるようになって、幼稚園や保育園で出会う5歳児や先生の姿に小学校の先生が驚く場面によく出会います。材料を自分で選び工夫を凝らした工作、大きさや形などを考えながら片付けをする様子、大きなものでも友だちと息を合わせて運ぶ姿・・。「幼児期の終わりまでに育ってほしい姿」は、目の前の子どもの姿を見ることで実感を伴って理解できるようです。ある先生は「私が受け持っている1年生も、ついこの間までは幼稚園や保育園でこんなふうに伸び伸び・きらきら・わくわくと活動していたのかと考えさせられた」と述べています。

ある時、帰りの時間に興味深いシーンがありました。身支度を整え自分のかばんと椅子を持って集まってきた子たちが上手に並んですわっていく中で、一人だけ後ろで用意ができていない子がいます。担任の先生がピアノを弾き、みんなで歌い始めました。小学校の先生は少しもぞもぞしています。「この子は歌わなくて良いのか」「全員揃っていないのに始めてしまった・・」という思いもあったようです。

協議会では、担任の先生から、帰りの支度に時間がかかる子には 30 分くらい前から何度も声をかけているという話がありました。幼児教育では、さまざまな場面で子どもたちの取り組みが多様であるという前提の上で、その姿に応じた関わりがなされていると感じます。その子だけのための時間配分や荷物を置く場所など、個別の配慮が多く見られます。特別支援かどうかという線引きをするのではなく、一人ひとりの思いや関心が大事にされているのです。

協議会の後、小学校の先生方から、たくさんの思いや考えが寄せられました。「行動が遅い子に対して、時間が迫っていると早く早くと言ってしまいます。子どもたちに早く早くというのではなく、担任が時間配分を意識していくことが必要なのだと改めて思いました」「小学校はやらなければならないことが決まっており、どうしても限られた時間の中でそれを終えなければならないという意識があるので、子ども達を急き立ててしまいがち。子どもとゆっくり向き合うことの大切さを再認識した」「小学校ではねらいに向かって進むことが多いため、私たちに待つゆとりがなくなってきた」「幼稚園は、じっくり、それぞれの子がしたいことに向かい合える時間がある。一方、小学校はとにかく時間に追われる。チャイムで動く。45分で完結しなくてはならない。しかもみんなが同じことをする」など。

学校では、活動時間20分片付け5分など、45分授業の時間配分の計画を立てると、学級の全員がその通り動くように指導するのが当たり前になっています。でも、一度幼児教育の場に身を置いてみると、小学校の当たり前を改めて見つめ直す機会となります。

どちらも同じ子どもの学びや成長を支えるはずなのに

幼児教育では、身につけるべき知識・技能に合わせた活動を用意するというより、子どもの主体的な活動が展開されるよう環境を整えることが教師や保育士の重要な仕事です。「環境を通して行う教育」と言われます。子どもたちは、園庭や保育室、友だちや先生などの自分を取り巻く様々な環境と関わり合って過ごす中で、今自分は何をしたいのか、何ができるようになりたいのか、という自己の生き方を見つめながら、さまざまな活動を進めていきます。それに対して学校教育では、各教科で習得すべき知識内容が学年ごとに細かく示されています。こうした段差を緩やかに乗り越えるために、スタートカリキュラムやアプローチカリキュラム、最近では地域全体で取り組む架け橋プログラムも始まっています。

しかし、3 月までは、登園すると一人ひとり先生と挨拶し、自分のペースで身支度をして、好きな遊びをしていた子どもたちの主体性は、学校教育に馴染むために抑えられていくのではないかと感じることもあります。昨日の続きの遊びに熱中したり、遊んでいる途中で他の子どもが加わって遊びが思わぬ方向に発展したり、面白そうなものを見つけるまでぷらぷらしたりする中で育ってきた主体性や粘り強さなどを十分引き受けて育てているでしょうか。上に示した先生方のように、小学校教育関係者が幼児教育の現場を参観する機会は多くありません。

二つの教育方法

最近、中学校の総合的な学習の時間の実践報告をお聞きする機会がありました。ふと、幼小の違いと似たことを感じました。

総合的な学習の時間には全員が習得すべき知識や技能はなく、生徒自身の願いや問題意識から追究するテーマを決めていきます。単元の終わりにはテストではなく、ポスターやプレゼンテーションなど生徒自身による表現で締めくくられることが多いです。教員の視点も、生徒の学ぶ姿に注がれます。プロダクト(成果)よりもプロセス(過程)が重視されているのです。

高等学校でも「総合的な探究の時間」や教科横断型の新教科「理数探究」などが新設されました。総合的な探究の時間は、実社会や実生活における複雑な文脈の中に存在する問題を様々な角度から俯瞰して捉え考えることや解決の道筋がすぐには明らかにならない課題や唯一の正解が存在しない課題に取り組むことが重視されています。中学校や高校の教員は、これまで以上に、自らの専門科目の社会的な意味や他教科とのつながりを意識する必要が求められるようになりました。総合的な探究の時間の学びについて、指導要領解説では「自己の在り方生き方と一体的で不可分な課題を自ら発見し,解決していく」と示されています。この姿は、幼稚園や保育園での子どもたちの姿にぴったりと当てはまることに気づかされます。一方で、既存の各教科の学習内容といえば、学年ごとに細かく示される方針は変わっていません。諸外国の教育課程と比較しても断片的な知識の羅列であることを痛感します。

幼児教育と学校教育の段差、総合的な学習や探究と教科学習との違いは、子どもの生きる社会に埋め込まれた子ども発の主体的な活動と与えられた正解を身につける学習との違いであることが見えてきます。佐藤学氏は、教育には古代ギリシャ時代から続く二つの方法があると指摘しています。教育は、自ら問いを発して推論する「探究のレトリック」と、権威づけられた正解への手続きを身につける「服従のレトリック」の二つに分断されており、前者は市民の教育、後者は奴隷の教育と述べているのです。日本の教科教育は服従のレトリックになっていないでしょうか。目の前の子どもの学ぶ姿を見とり、自分の専門分野の社会的意味と関連づけることによって、市民の教育としての教科教育が実現できるよう、これからも考えていきたいと思います。

佐藤学『教育方法学』岩波書店 1996年 p.7