山口意友先生:カント倫理学(道徳形而上学)は現代の道徳教育に役立ちうるのか(1)カント倫理学は机上の空論か?

2025.03.04

「人間は教育されなければならない唯一の被造物である。」
「人間は教育によってはじめて人間になることができる。」

『教育学講義』序論に記されるこの二つの文言は日本の教育界においてカントを紹介する際によく引用されますが、この文言だけではカントの教育思想を理解することにはつながらないでしょう。カントの教育思想を理解するには、さらに以下の文言を知っておくことが必要と思われます。

「実践的教育(道徳教育)とは人格性のための教育である。」(『教育学講義』A.455*1
道徳形而上学を所有していなければ、・・・とりわけ道徳教育において、道徳をその真の原理に基づけ、そのことによって純粋に道徳的な心術を引き起こし、世界の最高善のためにこうした心術を心に植え付けることも不可能である。 」(『道徳形而上学の基礎づけ』A.412)

つまり、人間にとって必要とされる教育は道徳教育(人格教育)であり、それを可能にするためには、まずは道徳形而上学を確立しなければならない。カントはこういう立場にいるのです。そこで本コラムではこの道徳教育に先行すべき「道徳形而上学」の内容を紹介していきたいと思います。しかし、カントの道徳形而上学を一般社会における道徳として理解しようとすると、大きな問題に直面することになります。特に有名な例として次のようなものがあります。

殺人鬼に追われた友人が私の家に逃げ込んだ時、追いかける殺人鬼から「お前の家に入ったのか」と問われた際にどのように答えるべきかという問題です*2

このような場合、友人を救うために「いいえ、この家には入っていません」と嘘をつくのが我々の自然な判断でしょう。ここには、「嘘をつくのはよくない」という一般的原則とは別に、「友人を救うためには嘘をつく必要がある」という例外的な考え方があります。しかし、カントは「殺人鬼に対する嘘も罪である」という立場をとり、次のように述べます。「言表における真実性は、たとえその結果として自分や他人にどんな大きな不利が生じようとも、万人に対する人間の形式的義務である。」「真実性の義務はこの義務を果たさねばならない相手とこの義務を守らなくてもよい相手とを区別したりはしないのであり、むしろ、それはどんな状況においても妥当する無条件的な義務である。」(「嘘論文」A.425)

このように、カントは道徳に例外を一切認めず、「真実を述べること(正直であること、嘘をつかないこと)」は、たとえ相手が殺人鬼であっても、万人に対する普遍的な道徳的義務であると主張するのです。しかし、こうしたカントの考えは、当然のごとく多くの人々の反発を招きました。それは言うまでもなく「殺人鬼から友人を救うための嘘」は、むしろ「つかなければならない嘘」だと多くの人々は考えるからです。そのためカント倫理学はあまりにも現実離れした形式的な原則論(理想論)にすぎず、現実社会では何の役にも立たない、まさに机上の空論(綺麗事)ではないかという批判が生じることになります。 ここで、カント倫理学を「現実には役に立たない理想論」「机上の空論」「綺麗事」として一蹴するのは容易ですが、その前になぜカントがこのような立場をとるのかを考えてみる必要があるでしょう。そのためには、カントが道徳教育に先行しなければならないとする「道徳形而上学」を正確に理解することが求められます。そこでカントの道徳的主著である『道徳形而上学の基礎づけ』(以下、『基礎づけ』と略)の内容を見ていきましょう。(1/4回)

  • 1頁付けはアカデミー版による。以下同。
  • 2これは、カント「人間愛から嘘をつく権利と称されるものについて」1797年 に記されている。(以下、「嘘論文」と略)