山口意友先生:カント倫理学(道徳形而上学)は現代の道徳教育に役立ちうるのか(3)カント倫理学(道徳形而上学)への疑問と回答

2025.03.18

ここではカントの道徳形而上学への疑問を質疑応答形式(Q&A)で整理してみます。

Q1:冒頭の「殺人鬼への嘘」問題において、カントが示す「道徳性(殺人鬼への正直さ)」は、一般的な考え方からするとどうしてもおかしいと思うのだが、それについてはどのように理解すればよいのか。例えば、「殺人鬼に対して嘘をつく」という格率ではなく、「友人を救う」という格率として考えれば、「嘘をつく」ことは友人を救うための手段・方法になるわけだから、「友人を救う」ことを目的として考えた場合には、少なくとも悪にはならないと考えることもできるのではないか。つまり、「友人を救うためであっても殺人鬼に対しても嘘をついてはいけない」というカントの考え方は、仮に純粋な道徳を形而上学として意識したとしてもおかしいのではないか。

A1:我々は「嘘をついてはいけない」という基本原則を意識しながらも、状況に応じて①「ついてはいけない嘘」②「ついてよい嘘」、さらには③「つかなければならない嘘」を区別して生活しています。この場合、①②③は具体的な事例ごとに変化することになります。しかし、これはその都度変化する偶然的なものに過ぎず、カントが批判した「経験に基づく実践的人間学」(第2回の表参照)の立場に属する道徳です。カントが確立しようとした道徳は、自然法則と同じように誰にでも(相手が善人であろうと悪人であろうと)妥当する普遍的なものでなければならず、個々の状況に応じて変化する偶然的なものではありません。しかも、それを形而上学という立場からアプリオリな形で基礎づけようとしたため、結果がどうなるかといった具体的な問題は完全に捨象されます。

実際、カントは次のように述べています。

ここでは、何が生じるかどうかは全く問題ではなく、理性がそれだけで一切の現象に関わることなく生じるべきことを命じるのである。したがって、この世で実例が存在したことがないような行為であっても、理性はそれを容赦なく命じる。(A.408)

このような形而上学的視点に立つと、行為の結果という実質を含んだ形で道徳を議論すること自体がそもそもカントの立場から逸脱していることになります。カントによれば、感性界ではあらゆるものが自然法則に支配され、叡智界では道徳法則が支配するとされています。カントが示そうとした道徳法則は叡智界に属するものであるため、感性界における具体的な状況に基づいて道徳を規定することは、カントが批判した「実践的人間学」(第2回の表参照)の立場に戻ってしまうのです。

もし仮にカントが「殺人鬼に対する嘘は道徳的である」と認めたとすると、それは個別の具体的な内容によって道徳性を決定したことになります。このような立場はカントが意図した形而上学には全く値しないものとなり、カント倫理学の根本的な矛盾を引き起こしてしまいます。繰り返しますと、そもそもカント倫理学は「実践的人間学」から切り離された「道徳形而上学」を確立することを目的としているため、経験的な具体例に基づいてカントを批判しても、議論の土俵が異なってしまうのです。したがって、カント倫理学を批判するのであれば、同じく「道徳形而上学」の立場から議論を展開する必要があります。

Q2:上記問答のように考えると、カントの道徳形而上学とは単なる綺麗事であって現実には全く役に立たない無意味なものではないか。

A2:カントの道徳形而上学を具体的な道徳にそのまま適用してみると、単なる綺麗事どころか決して実現できない究極の綺麗事と言えるでしょう。しかし、道徳を論じる場合には究極の綺麗事(理念)も知っておくことも必要かと思われます。カントが言っていたように「道徳形而上学を所有していなければ、・・・とりわけ道徳教育において、道徳をその真の原理に基づけ、そのことによって純粋に道徳的な心術を引き起こし、世界の最高善のためにこうした心術を心に植え付けることも不可能」となります。つまりカントが示すように、我々の心中に潜む傾向性という下心の存在を意識した上で、そうした実質的内容の徹底的な排除によって生じる「究極の綺麗事」すなわち道徳の純粋性を理解することで、より高度な道徳を思考することができることになります。したがって、現実に全く役立たないから無意味であるとは言えないのです。

Q3:「信用を得るためには、嘘をついてはいけない」という格率が仮言命法であるのは分かるが、それならば単に「嘘をついてはいけない」という格率は定言命法と言えるのではないか。

A3:定言命法を、「~のためには」という条件部分を含まない「端的に命じる」命法と考えると、そのように理解してしまうかもしれません。しかしこの理解は誤りです。なぜなら、自身の格率を「下心の無い端的に命じる定言命法である」と意識した時点でそこに道徳性が成立してしまうことになってしまうからです。カントが言う定言命法とは「実質(具体的内容)」を一切含まないものです。そして一番重要なのは、「嘘をついてはいけない」という格率は定言的に見える命法に過ぎず実際には隠れた仮言命法であるというのがカントの立場です。

カントは次のように言っています。

定言命法は行為の実質や行為から結果する事柄にはかかわりを持たず、形式と、行為そのものを生む原理とに関わるのであり、行為の本質的善は心術のうちにあって、結果はどうであろうとかまわないのである。(A.416)

定言命法が存在するかどうかは、実例によってすなわち経験的に決着されるべきではないということであり、むしろ懸念すべき事は定言的と思われるすべての命法が実は隠された形での仮言命法ではないかということである。(A.419)

したがって、定言命法を語る際には、「嘘をついてはいけない」というような具体的内容ではなく、カントが示した5つの方式(第2回の「註3」参照)の形で示さざるを得ないのです。

Q4:定言命法の可能性を示すには、傾向性からの離脱という自由の消極的概念と自己立法という自由の積極的概念(自律)が必要とのことだが(第2回の③参照)、カントの言う「自由」とは、通常我々が使う自由(好きなことをやってよい)とは真逆の意味を持っているのか。

A4:その通りです。カントの言う自由とは「道徳的(実践的)自由」のことであり、私たちが一般に使う「好きなことをする自由(欲望の自由)」とは正反対の意味を持ちます。カントの自由とは形而上学的理念の一つであり、傾向性からの離脱と自己立法(第一原因としての自発性)、すなわち自律を指します。(この点については、以前のコラム「欲望の自由と道徳的自由(2021.10.25)」でも論じていますので、そちらを参照して下さい。)

上記の質疑応答を経ることでカントの形而上学をある程度理解したとして、それを教育現場に応用するには何が必要かを次に考えてみましょう。