山口先生:「正義」の源流Vol.1:やられたらやり返す?-復讐と正義-

2013.10.21

このコラムでは私が担当している「教育哲学研究」の中から、「正義」に関する一部分を紹介していきたいと思います。

高視聴率を打ち立てた『半沢直樹』というテレビドラマをご覧になった方は多いはずです。「やられたらやり返す。倍返しだ!」という半沢の言葉は、本音の部分において、多くの人々に溜飲の下がる思いをさせてくれたようです。

「やられたらやり返す」というような、いわゆる復讐の原理を示すものとしてどのようなものを連想されるでしょうか?多くの人は「目には目を、歯には歯を」をイメージされるのではないかと思います。そうです、かの有名な『ハムラビ法典』です。

この法典は「やられたらやり返す」を意味する「復讐の法典」というようなイメージで語られることが多いようです。しかし結論を先取りして言うならば、実は決してそうではないのです。このコラムではハムラビ法典が「復讐」ではなく「正義」を語った法典であることと、なぜこの法典が復讐の法典と言われるようになったのかを示していきたいと思います。

一般に「正義」の起源を論じる場合には古代ギリシャ・ローマ時代に求めることが多いようですが、実は、同時代に規定されたとされる「均等性としての正義」は、さらに遡ること千数百年前の「ハムラビ法典」のなかにその萌芽を見出すことができるのです。「ハムラビ法典は“復讐の法典”ではなく“正義の法典”である」と言ったら、恐らく多くの人は意外に思われるかもしれません。しかしこの法典を実際に読んでみれば、「やられたらやり返せ」「復讐法」「敵討ち奨励」というような理解がいかに先入見にもとづいたものであるかよく分かります。

このことを明らかにするためには、まず「正義」について簡単な予備知識を持っておく必要があります。正義の女神は片手に天秤ばかりを持っていますが、この天秤ばかりの左右の皿が釣り合った状態が正義です。例えば、法曹関係では天秤ばかりを目にすることが多々あります。裁判所に飾られている「正義の女神」(右画像)をはじめとし、弁護士のバッジの中心には天秤ばかりが記されています。これは、簡単に言えば、犯した罪とそれに対して与えられる罰とが釣り合った状態を正義とするのです。従って「やられたらやり返す、倍返しだ!」は正義に反することになります。なぜなら「やられたこと」に対して「倍返し」をするわけですから、「やられたこと」と「やり返したこと(倍返し)」の両者を天秤ばかりにかけた場合、釣り合いがとれず片方に傾くからです。(続)