松本先生Vol.8:工藤直子の詩による読みの交流の学習(4)

2016.02.18

わたし/語り手/作者

詩の語り手は作者とは違う。それはそうである。しかし、「おれはかまきり」を題材に、「作者は誰か」を考えさせ、討論させて、作者は工藤直子、話者は「かまきりりゅうじ」として二つの違いを理解させるという実践には違和感がある。「へんじ」の作者は、「こねこまりこ」を名乗っている。読み手は第一に一人称の「こねこまりこ」の声を聞く。それは作者としての「こねこまりこ」を想定するということでもある。大人の読者だって、工藤直子を想定して読むには一段階を挟まなければならない。
人は、「たんぽぽはるか」の署名を読んでも、工藤直子の「あいたくて」を「わたしの声」で受け止める。「たんぽぽはるか」は「わたし」であり、会いたいのは、亡き母であり、恋人であり、友人であり、神様であり、さまざまなものであり得る。学習活動は時としてそうした声を「擬人法」などという言葉で圧殺してしてしまうが、まず声をきき、その意味に名付けをせねばなるまい。
工藤直子は、「わたしは、谷川俊太郎さんの詩も、まど・みちおさんの詩も、わたしが谷川さんに書かせた詩、わたしがまどさんに書かせた詩と思っている。」と言っていた。自分には思いつかない言葉を、詩人は思いついて言葉にしてくれる。しかし、それを声に出して読むとき、それは「私が詩人に書かせた詩」になっている。
工藤直子は、「のはらうた」の一連の詩を「のはらみんなのだいりにん」として書いていることを表明している。「わたし」と「たんぽぽはるか」と「工藤直子」の声が交錯しながら、「わたし」や友達の誰かが工藤直子に書かせた詩として言葉が立ち現れれば良いのである。