松本先生Vol11:いわゆる協同的な学習の問題点(3)
2016.11.21
田村一秋(聖学院小学校)による「ねじれ俳句」の授業についての佐内信之によるレポートと座談会が紹介されている。この記事にある事例を検討してみよう。
佐内信之「協同学習×iPadによる授業づくり~田村一秋氏の授業「ねじれ俳句レポート」~」『授業づくりネットワーク』No.16 通巻324号 特集:「協同学習」『学び合い』「学びの共同体」その良さと実践 2015.1 学事出版 pp.20-29
芭蕉の句を教材にした授業の展開は次のように説明されている。
- 個人思考(自分のiPadで並び替える)
- 集団思考(4人グループで話し合い、共通の一つの答えにしぼる)
- 「特派員」1人は残り、それ以外は他のグループに行って、その組み合わせを聞き、自分のiPadに並べ替えて持ち帰る。
- 取材が終わり、再度グループで検討、グループの案を固める。
- 俳句の上の句の番号を各グループに割り振り、グループ全員で全力でその意味を考える。
- グループの代表が季語、意味をプレゼンテーションする(俳句が語っている事実とそれから感じられる情緒の説明)
- 実際の『奥の細道』の俳句の発表
- 振り返り
(2)の学習活動の途中で、教師が「俳句の4条件」をヒントとして提示している。(1五・七・五 2季語 3切れ字 4余韻)そして、「このうち、季語が大きなヒントになります。季語は俳句に一つしかありません」と発言している。さらに、④の学習活動の途中で、いくつかの語句についていわゆる語釈がなされている。
つっこみどころはいくらもあるが、いくつかあげる。
- なぜ集団思考で一つの答えにしぼらねばならないのか。
- プレゼンテーションがなぜ季語と意味に限られ、考えた句の形についての説明ではないのか。
- 学習者は季語について考えるリソースを持っていない。
結局、学習目標とそこに至るために必要な知識というリソースが不明確である。このような話し合いには意味がない。協同的な学習とは言えない。