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全人教育の広がり

全人教育提唱100周年記念サイト

小原國芳は半世紀以上にわたり全国各地を教育行脚し、「教育立国」の夢を、そして「全人教育」の理想を語り、全国に新教育運動の火を点した。訪問年月がわかる教育行脚の最初は、1920(大正9)年5月1日。時に國芳33歳。場所は福島師範学校附属小学校であった。行脚は戦中の一時期中断したが、1975(昭和50)年11月まで半世紀以上続いた。訪問地は全国津々浦々という言葉が正に当てはまるほど日本全国各地にわたっている。『全人教育』の身辺雑記などの記録によれば、996にもおよぶ市町村の訪問地名があがる。

日本全国を教育行脚
『敎育立國論-日本國民に訴ふ-』

戦後第1回目の行脚は、終戦から3か月後の1945(昭和20)年11月22日、東京都江戸川区の教育会へ。困難な交通事情の中でこの行脚は再開された。さらに國芳は「新生日本は教育立国にあり」と、困難きわまる交通事情にもめげず、1946(昭和21)年1月より、全国に教育講演行脚を始める。この年、米国教育使節団が、教育改造案立案のために玉川学園を視察に訪れ、玉川の教育を高く評価した。

米国教育使節団が来園

『玉川学園五十年史』によれば、1946(昭和21)年から1950(昭和25)年の間に、國芳は北は北海道から南は鹿児島まで678回の講演を行っている。例えば、北海道で17回、青森県で14回、新潟県で19回、静岡県で124回、兵庫県で22回、徳島県で21回、広島県で23回、鹿児島県で60回。この間に行かなかった県は秋田県、三重県、和歌山県の3県だけであった。

教育講演会

行脚での講演の中心は「全人教育論」「教師論」「教育立国」など教育全般にわたり、実践の場である玉川学園についても熱き思いを込めて語った。それ故、話を聞かれた方々は小原國芳の名前とともに、玉川学園の名を記憶したことだろう。講演後には、著書や百科事典などの販売も行った。

全人教育研究大会

國芳の教育行脚は国内に留まることなく海外でも行われた。初めての海外教育行脚は1924(大正13)年8月。10日から15日まで、当時、植民地であった朝鮮での講演。以後、欧米での行脚が行われ、玉川教育についての講演は異国の地でも大きな反響を呼んだ。

ベルリン市での講演

1945(昭和20)年8月、終戦を迎えた日本国民は敗戦の影響で先の見えない日々を過ごしていたが、國芳はいち早く教育立国を唱えて新生日本の進む道を示した。そして、國芳は、第1回の新生日本教育研究会を、終戦の年である1945(昭和20)年の12月1日に玉川学園礼拝堂で開催した。その時のことが、『全人』第665号(玉川大学出版部発行)の「故(ふる)きを温(たず)ねて」に次のように記されている。

軍国主義の時代に終止符を打ち、新しい時代の教育を模索している教師たちに向かって小原國芳は、「国家の再建は教育から」と叫びをあげた。「日本國民に訴ふ」から始まる『敎育立國論』(玉川學園出版部)は、研究会講演で獅子吼(ししく)した原稿から起こしたものである。そして、新時代の日本の教育は玉川から生れるのだという強い信念を研究会の名称とした。
教職員から、自信がつくまで研究会開催は延期してほしいと申し入れ。それに対して、「人に見せられぬブザマな教育か」「他がやらぬから、やることに意味がある」と開催を強行。劣悪な交通事情の中、1,312名が全国から食料持参で玉川の丘に参集。講演会場は立錐の余地もないほどであった。翌年は一年間に7回もの研究会が行われ、「教育の玉川」の名が一躍全国に広まった。

この教育研究会は、1985(昭和60)年に90回目を迎えた。

第2回新生日本教育研究会(昭和21年)

國芳が全人教育を提唱してから2021年で100年。國芳が語った教育への熱き思いは、こうして全国に広がり、海外でも注目されている。そして、玉川学園は、全人教育のもと、教育の理想に向かい、開拓者精神をもって、未来へのチャレンジを続けている。

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