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ジャンルと国境を越えて活躍する演出家・宮本亞門氏を迎えて 芸術学部演劇・舞踊学科主催特別公開講座「人生二度なし!」開催

2023.05.16

4月29日(土・祝)、大学教育棟2014・521教室にて、演出家の宮本亞門氏を講師にお迎えした芸術学部演劇・舞踊学科主催の特別公開講座「人生二度なし!」が開催されました。この講座は芸術学部生以外にも舞台芸術に関心がある他学部学生や卒業生、さらに休日開催ということもあり中高生と保護者をはじめ一般の方々にもご参加(要予約)いただきました。

国内外の幅広いジャンルの舞台を手掛けている宮本氏は、かつて玉川学園高等部を経て玉川大学文学部芸術学科(当時)で学びました。玉川の丘を訪れるのは久しぶりという宮本氏は、会場に集まった後輩たちを笑顔で眺めながら、まず会場とご自身を隔てる演台を横にずらし、あたかも一人芝居を演じるように全身で会場の聴衆と向かい合います。そして「玉川がなければ、演出家になれなかった」と自らの生い立ちについて語り始めました。

新橋演舞場近くで喫茶店を経営するダンサー出身の母親の影響で、幼い頃から演劇や歌舞伎に興味を持ち、役者や芸者に囲まれて育った宮本少年。幼くしてミュージカルや歌舞伎への造詣を深めていきましたが、同年代の友人と話が合わなくなり、次第に「他人が怖い」「集団生活できない」暗い少年になっていったそうです。中学時代には仏像の美しさに目覚め、建築や美術へ関心を広げていきましたが、ますます同世代からは浮いた存在に。「当時の僕は自分が好きなものをからかわれて、自己否定の連続。コンプレックスだらけ」の日々を送っていたそうです。

そして入学したのが玉川学園高等部でした。まだ創立者・小原國芳が健在でその講義に触れて「とにかく熱い人で、こんな大人がいるんだ!」と感激したそうです。
ところが、失恋などの原因もあって早くも1年生で不登校に。「自分なんて生きている価値があるのか?」、そう思い詰めた宮本少年は自宅の部屋で約1年間の引きこもり生活を送ることになります。「ミュージカルやクラシックなど10枚のレコード、中原中也や芥川龍之介の本」だけが心の支えでした。心配する母親に乞われ大学病院の精神科を受診すると「病院の先生は(笑福亭)鶴瓶さんみたいな人で、いろんな話をしていると『きみ、おもしろいね。1週間私のところに通いなさい』とニコニコして言われた」。やがて医師から「そろそろ学校に通ってみなさい。ダメだったらまたここに戻ってくればいいんだから」と言われて復学することに。「どきどきしながら学校に戻ってみたら、玉川の先生や友だちがみんな歓迎してくれました。精神科の医師に他人と違う私の視点や感性を認めてもらったこと、そして玉川の人たちの温かさが私に小さな自信を与えてくれ、それはやがて希望へと育っていきました」。
その後、宮本少年は当時高等部長だった演劇教育の専門家・岡田陽にその才能を見出され、岡田自身が教授をする文学部芸術学科(当時)への進学を勧められました。
大学時代、岡田にとことん鍛えられた宮本氏は公演本番3日前に「振付が嘘くさい!全部作り直せ」と言われて楽屋で悔し涙を流し、必死に改善し公演を成功させたこともあったそうです。

4年生の時、親に内緒で受けた銀座・博品館劇場で上演されるミュージカルのオーディションにダンサーとして合格します。「親と一緒に岡田先生に今後の道を相談したところ、『君は大学を辞めて社会に出た方が良い』と言われ、親はもちろん僕もビックリ(笑)。岡田先生には『そのかわり全責任をもって、荒波にもまれなさい』とアドバイスをいただき、大学は中退しました」。


1980年に宮本氏はミュージカル『ヘアー』に出演しましたが、その舞台初日前夜、ずっと見守ってくれた母親が自宅で倒れているのを発見。救急車で病院に運ばれましたが、翌朝に息を引き取られました。宮本氏はその日の舞台で母親が好きだった『ヘアー』の劇中歌「アクエリアス」を歌いながら、「(ダンサーだった母から)バトンを渡された」気持ちになり、今でも「ここから僕の人生は変わった」と思われているそうです。
ダンサー、振付として活動しながら、毎年のようにショービジネスの本場である米国・ニューヨークへ渡り、演出家を目指していた宮本氏。ある時、ニューヨークの演劇人から「What do you want to do?(きみは何がやりたいの?)」と問われ、演出家という肩書ではなく「何をやりたいか」が重要だと思い知ったそうです。
そして1987年、オリジナル作品のミュージカル『アイ・ガット・マーマン』で演出家としてデビュー。以来、今日までミュージカルをはじめ、オペラや様々な舞台芸術を手掛けるジャンルを超えた演出家として国内外で高い評価を得てきました。
しかし、宮本氏の演出家としての道のりは必ずしも順風満帆ではありませんでした。2001年9月、ミュージカル『アイ・ガット・マーマン』の米国初舞台の数日前の9月11日、アメリカ同時多発テロ事件に遭遇。そのストレスから逃れるように向かったタイ・バンコクで交通事故に遭い、重傷を負います。さらに2019年には前立腺がんが判明しました。それでも手術をして退院後すぐに演出活動を再開し、コロナ禍を経た現在も旺盛に活躍されているのはご存じのとおりです。

講演の最後に宮本氏は「自分の人生という舞台で、自分を主役にした脚本を自分で書き、自ら演出する『オリジナルな人生』」の価値を会場の聞き手に問いかけ、講座の演題である「人生二度なし!」というメッセージをあらためて後輩である若い学生たちに贈りました。
講演後の質疑応答の時間には芸術学部の学生や一般の方々から次々に宮本氏に質問が飛び、その一つ一つにたいしてユーモアを交えながら丁寧に回答する姿が印象的でした。

特別公開講座終了後、宮本氏はかつて学んだ大学3号館演劇スタジオに向かい、そこに集まった芸術学部演劇・舞踊学科の学生約30名の学生と車座を囲んで親しく懇談。宮本氏から学生に対して「なぜあなたは演劇を選んだの?」「きみがもっとも衝撃を受けた舞台作品は何?」「その場限りで消える舞台より、映画の方がいいと思わない?」など鋭い質問が次々に発せられました。また、学生から宮本氏へは「演劇の道に進むことに親が反対していて悩んでいます」「宮本さんにとって舞台の成功の基準は?」「演出家になるための人生経験をどのように積めばよいですか?」などの質問が飛びました。短い時間ながら先輩・後輩の親密で濃密なやりとり。当日その場にいた学生一人ひとりにとって、まさに「人生二度なし!」の思いを深めた時間となったことでしょう。

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