故きを温ねて 66
ホントの姿を知りたい爲に行くのだ
小原國芳は中学進学の夢が叶わずに電気通信技術伝習生養成所に入り電信技手となる。しかし寺子屋の師匠であった祖父のような先生になりたいと鹿児島県師範学校に進学した。その後先々の学校で外国籍の宣教師や教師、海外留学経験のある教師たちとの出会いに恵まれた。
師範学校在学時にはアメリカ出身の女性宣教師ランシング、ケンブリッジ大出身の宣教師ローランズ。広島高等師範学校在学時にはアメリカ留学帰りの三澤糾(ただす)、アメリカ生まれのスミス、スコットランド生まれのプリングル。京都帝国大学在学時は波多野精一ほかドイツ留学帰りの教授らと出会う。こうした人々との出会いから海外への夢を持ち続けた。
広島高等師範学校附属小学校を経て成城小学校に勤務。成城小学校長の澤柳政太郎が欧米視察をしていた時、小原に「ぜひ(欧米に)やって来い」と勧めた(『教育太平記』)。しかし小原は成城主事として多事多忙のため叶わぬ夢であった。
成城主事時代、創立直後の玉川学園では教員たちをフランス、ドイツ、アメリカ、デンマーク、国内の大学へと送り出している。自分でもどれほどか留学や海外視察をしたかったことだろう。
1930(昭和5)年10月、信夫人を伴っての海外視察が実現した。「外を見て初めて内が分るといひ、國境を越えて眞の愛國心が湧くとかいふが、やはりホントの姿を知りたい爲に行くのだ」(『學園日記』第十六號)と念願が叶った抱負を述べている。時に小原43歳であった。
(文=白柳弘幸 教育博物館)
『全人』2019年4月号(No.837)より