故きを温ねて 98
それは2人の生徒から始まった


1964(昭和39)、東京で初めてのオリンピックが開催された頃、中学部(当時)でブラスバンド部がつくられた。翌年、高等部(当時)の2人の生徒が自由研究でブラスをやりたいと、音楽科の教員に申し出、高等部ブラスバンド(以下、ブラス)が始まった。創部4年で東京都代表になり、全国大会出場を成し遂げた。
ブラスは土日祝日夏休み冬休みなしの練習をしている、という話を伝え聞いたことがある。そうした頑張りの先にあったのが、全日本吹奏楽コンクールでの1976年度から5年連続金賞の快挙や、1984年7月にオーストリア・ウィーンで行われたウィーン国際青少年音楽祭に参加し、総合優勝となるウィーン大賞の受賞だ。
小原國芳はしばしば「大望あれ!」「開拓者たれ!」(『玉川塾の敎育』)と述べた。開拓とは未開の土地を切り拓き開墾することだけを言うのではない。まだ誰も行っていない新しい分野の研究や物事などに取り組むこともいう。2人の生徒こそが玉川のブラスの開拓者だった。ブラスが始まった頃、5年連続の金賞やウィーン大賞受賞を誰が予想しただろうか。
小原が描き創立した「ゆめの学校」は、この丘に学ぶ児童生徒学生たちが自分の夢を実現させる場でもある。自分が本当にしたいことは何か、自分の夢は何か。やらずに後悔するより、やって後悔した方がよいなどと言う。進級、進学の時期を迎え、創立者の「開拓者たれ」の言葉を胸に刻みたい。
(文=白柳弘幸 教育博物館)
『全人』2022年3月号(No.869)より