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ランシング先生

2016.12.20

ランシング先生の深い信仰と愛情が、國芳の新教育開拓の原動力に

1.ランシング先生と小原國芳との出会い

ハリエット M.ランシング先生は、明治20年代にキリスト教の伝道のために来日した。アメリカ東部のニュージャージーからサンフランシスコに出て、そこから小さな汽船に乗って5、6週間かけて長崎にやって来た。長崎では、教会が運営していた梅ケ崎女学院の先生を務めた。そして、「日本キリスト教会」の設立を機に、長崎から鹿児島に移り住んだ。

  • ランシング先生…1863(文久3)年生まれ。1931(昭和6)年死去。
鹿児島時代のランシング先生

1905(明治38)年、小原國芳18歳のとき、向学の念を抑え難くなり、勤めていた鹿児島県の大浜電信局を辞めて鹿児島県師範学校に入学した。國芳は、最初の日曜日に、行きたかったキリスト教の教会を探して回った。それは大浜電信局時代、鹿児島市から月に一度やって来た牧師さんより聖書の話を聞いたり、讃美歌を習ったことからキリスト教に興味を持ったためであった。そして國芳がやっと教会を見つけて、その入口に近づいたときに、一人の西洋婦人が心優しく中へ招き入れてくれた。その西洋婦人がランシング先生であった。

礼拝が終わって帰ろうとした國芳を、ランシング先生が出口のところで待っていた。用件は日曜学校の小学生の授業を一クラス受け持ってほしいというものだった。そして、その依頼を承諾した國芳は、毎日曜日の朝、ランシング先生の家に行き、教える内容や教え方を学び、それをもとに日曜学校の授業に臨んだ。

國芳がランシング先生の家に行ったとき、お祈りをしてくれたことが、小原國芳著『少年の頃』に次のように記述されている。

先生は先ず、お祈りをしてくださいました。不十分な日本語が、ふしぎに上手な日本語よりも力強く私の心にしみ入るのでした。
「天のお父様。一人のお弟子をあたえて下さいまして、まことにありがとうございます。」
と、いったようなお祈りでした。私が今まで七十年のクリスチャン生活で、お祈りする時、どうしても、「天のお父様」と呼びかけるのが一番、私の気持ちにピッタリするのは、全く、ランシング先生の最初のお祈りのお言葉が私を支配しているからでしょう。

鹿児島時代のランシング先生(写真中央)
ランシング先生の向かって右後ろに小原國芳

國芳は日曜学校の後で、ランシング先生からキリスト教の教えについて話を聞いた。さらにランシング先生からよく食事をごちそうしてもらった。國芳は早くに母を亡くしたこともあり、そのときの気持ちを『少年の頃』に次のように記している。

ランシング先生は、私を新しい人に会わせるとき、
「これは、私のムスコです。」
と、もったいなくも、よく紹介してくださいました。長崎や福岡、東京や神戸あたりからお友だちの宣教師が時々見えるものでした。食事もいっしょにさせてくださいました。
母を亡くした私には、何だか、母の生まれかわりのようなありがたさが、だんだんまして来ました。どこか、母の顔形にも似ておられました。

國芳が電信局での仕事の忙しさから胸を痛め、時々咳き込んだり、微熱を出したりしたときには、「薬より栄養です。」と言って、ランシング先生が夕食をごちそうしてくれたことも記述されている。

やがて月日は流れ、1909(明治42)年、國芳は広島高等師範学校本科英語科に入学。鹿児島の地を離れることになった。

2.ランシング先生と國芳との再会

成城学園時代のランシング先生(写真中央)
ランシング先生の後ろに小原國芳、前に小原信

1919(大正8)年12月、國芳は澤柳政太郎の招きで東京市牛込区(現在の新宿区)の成城小学校の主事として上京した。1924(大正13)年には、今の成城学園がある砧村喜多見の高台の土地を購入し、学校づくり、町づくりを行った。その成城学園の開拓期に、ランシング先生が九州を引き上げて成城にやって来た。当時國芳は講演のため日本中を駆け巡っていた。そして日本の教育を引っ張っていくのだと語った國芳に、ランシング先生は「ドント・ビー・プラウド!」(自慢してはなりません)と毅然な態度で言い放った。そのわが子を叱る母親のような言葉に、頭から冷水をかけられた気がしたと國芳は後に語っている。

その当時のことが、小原國芳著『教育一路』に次のように記されている。

なつかしい宣教師ランシング先生も九州から成城学園入りして下さいました。少しでも宗教教育をしてもらいたかったからです。私の家の屋敷の中に洋館を建てて、お迎えしました。小学校、中学校の英語、高校生の日曜学校、婦人たちを集めての家庭教育など、新しい学園づくり、町づくりに参加して下さいました。青年時代の私を息子のようにかわいがって下さった先生は、よく「お前のそばで死にたい」とおっしゃってくれたものでしたが、老齢になられて、ニューヨーク郊外のロングアイランドの故郷にいるたった一人の妹さんが、さびしいから帰国してくれということで帰られることになりました。

1928(昭和3)年、ランシング先生は「小原を育てたことで、私の日本での奉仕生活はむくわれた」という言葉を残して帰国の途についた。そしてその2年後の1930(昭和5)年、國芳は世界行脚の途中のニューヨーク滞在の際に、ランシング先生を訪問。その約半年後にランシング先生は他界された。ランシング先生は、國芳にとって大きな影響を受けた一人であった。

参考文献

  • 小原國芳著『少年の頃』(玉川こども図書館) 玉川大学出版部 1974年
  • 小原國芳著『教育一路』 玉川大学出版部 1980年
  • 南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』 玉川大学出版部 1977年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年

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