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玉川学園女子短期大学

2017.05.23

戦前から女子高等教育を行っていた玉川学園。そのさらなる充実を望む声に応えて、玉川学園女子短期大学が誕生した。

1.女子短期大学の設立

玉川学園創立者小原國芳は、1937(昭和12)年発行の著書『日本女性の理想』(玉川大学出版部)中の女子高等教育論において

「世の多くの女子高等専門学校を見るに、一は単に一技能か一学科を授ける職業婦人を作ることに堕しておる。一は漠然として、各種の教科を授け、一方、女性としての実技を軽んじておるかの感じがする。二者いずれもいけないと思う」

と論じ、現代生活の熾烈な知的要求を満足させつつ、一方において、家庭人とし、社会人として実際生活に必要な能力を育成すべき、全人的教育の必要性を強調している。

洋裁
ホームスパンを織る
生花
女子塾

また國芳は戦前、「世界に他に類例のない日本の母の母性愛をいっそう賢明にし、精錬し、高める意味においても、女子高等教育の必要を実に高調したい」と『女性日本』(1937年2月号)に記している。実際、学園創立の翌年1930(昭和5)年に女学部(高等女学校)を開校、1935(昭和10)年から1948(昭和23)年の間には玉川塾専門部のなかに女子高等部と称するコースを設置していた。このように玉川における女子高等教育は戦前から始まっていた。

駅前にて
登校
松陰橋を渡って
松陰橋を渡って

戦後になり、國芳は女子高等教育のさらなる充実を目指し、女子短期大学(以下「短大」と表記)の設置を検討する。そして、1960(昭和35)年9月に短大の設置申請書類を文部省(現在の文部科学省)に提出した。しかし、当時の日本は、高度経済成長期にあり、農業国から工業国への移行が始まり、その分野の人材の育成が急務であった。その社会情勢に合わせることを最優先とし、國芳は短大の設置申請を取り下げ、工学部を設置することを決心した。そして1962(昭和37)年4月に工学部を開設した。

女子短期大学校舎

このように短大の設置を一端は断念するが、開設に向けて着々と準備を進めていた。1961(昭和36)年4月に玉川大学に二年課程と称する女子高等教育コースを設置。翌1962(昭和37)年4月には女子教養学科と名称を変更し、1964(昭和39)年まで学生募集を行う。この女子教養学科を母体として文部省に設置申請を行い、翌1965(昭和40)年1月25日に、念願の玉川学園女子短期大学(教養科)の設置が認可された。そしてその年の4月に開校、短大は新入生228名でスタートした。

2.教養科(入学定員150名)

短大の教育目的は、学則の第1条に、次のように記されている。

「女性をして健やかに良き社会人として成長せしめることを目的とし、主として人文科学的な立場に立って、高い道義心と豊かな芸術心をもって人格をきずき、ゆるぎない宗教心に根ざす教養と学芸を授けて、実際生活に必要な能力を育成し、延いては人類の幸福と文化の進展に寄与することを使命とする。」

女子短期大学第2校舎(右:旧女子塾)とりんどう食堂

このような教育目的のもと、教養科の教育がスタートした。授業は当初、現在の大学1号館を使用して実施された。校舎は5階建で、1階は文学部芸術学科の実技教室、事務局長室、事務室、ホール、2階は学長室、文学部専任教員の研究室、会議室、3階・4階・5階は教室。4階には教室のほか短大専任教員の研究室が配置されていた。3階・4階・5階の教室は、短大1年次生と女子教養学科2年次生の授業で使用された。翌1966(昭和41)年4月に新たに短大校舎(現在の大学9号館)が完成したため、短大の授業はそちらに移って行うようになった。1971(昭和46)年から教養科の中に、言語・文学、芸術、宗教・哲学といった3つのコースが設置された。以後その枠組みは、教養群、外国語・外国文学群、国語・国文学群、人間学群、芸術群の5群制を採用したり、教養コース、英語・英米文学コース、日本語・日本文学コースの3コース制をとったり、その時代にあった形に変化していった。

教養科のカリキュラムの特色として、教養科開設当初より『名著購読』という授業を1年次生の必修科目として開講していた。そのことが、佐藤一彦著「感動のある教育を―玉川学園女子短期大学の教育―」(『全人教育』494号 玉川大学出版部)に、次のように記されている。

「古今東西の数多くの名著を読み、教養の幅を広げると共に、人間としての向上、充実を図ることがねらいである。
短期大学専任教員から、数冊ずつ推薦された選定図書を、共通図書と指定図書とに分類提示し、所定の選択方法に基づき、年間5月と7月の2回、4冊の図書を選択登録し、担当教員のガイダンスのもと、各課題によるリポートを指定の日までに提出するというものである。」

教養科には、文学部との関連において幼稚園教諭2級、小学校教諭2級の普通免許状が取得できるコースが設けられていた。教員養成のためのこのシステムは女子教養学科から短大教養科に引き継がれて、1967(昭和42)年度、すなわち、教養科2回生の2年次まで続いた。

LL教室での英語演習
労作(サトイモの収穫)

3.保育科(入学定員50名)の増設、幼児教育科への名称変更

教育実習

教養科には上述のような教員養成のシステムが用意されていたが、教員養成のさらなる充実と、それに伴う資質向上を目指す制度改革を要望する声が高まってきた。それは、これまで学生が文学部との関連で教員免許を取得できていたが、学科独自で課程認定を受けて教養科のカリキュラムを学修することによって学生が教員免許を取得できるようにしたいというものであった。そのため、免許状の種類を幼稚園教諭2級普通免許状だけに絞り、文部省と交渉。しかし、教養科という科の性格上、教員免許の課程認定を受けるのは無理であるという回答があり、これを断念した。そのかわりに幼稚園教諭2級普通免許状の課程認定を受けることが可能な保育科の設置を計画した。

保育科増設の趣旨については、当時の入学案内に次のように記されている。

教養科の精神をもとにして、今日の社会においてともすれば忘れられがちな母性の養成を主眼とし、さらに保育者としての適性が認められるものに対しては、幼稚園教職課程履修をあわせて行える。

合唱発表会

つまり、母性の育成と同時に、女性の職業として適した幼稚園教諭の養成を目的として保育科が設置された。こうして、短大は、1967(昭和42)年4月、教養科211名、保育科134名の新入生を迎え、教養科2年次生304名とあわせ、649名の学生数となった。

やがて、短大は高等教育機関として4年制大学とは異なる重要な地位と役割を占めるに至った。家庭あるいは主婦、さらには母親といったことが今後の社会における女性のあるべき理想の姿であると考えられていた時代背景もあり、短期間において実際的な専門職業教育を施す短大は魅力的であった。特に女子を中心として短大を望むものが後を断たず、その波に乗って本学の短大も発展し続けた。やがて、保育科に関しては、保母(現在の保育士)養成ではなく、幼稚園教諭の養成であることを明確に示すため、1984(昭和59)年4月より保育科を幼児教育科に名称変更した。

須雲塾セミナー(箱根須雲塾での研修)

4.専攻科の設置

1971(昭和46)年に研究生制度を発足させた。これは短大での2年間の学修をさらに深めたいという学生のために、卒業後も1年間は短大に残って研究ができるという制度である。研究生は年齢的には大学3年次生に相当し、自ら勉学の道を選んだため、自発的な学修が望まれた。科目受講が目的ではなく、研究が主体であることから、研究報告書の作成が義務付けられた。授業科目の履修は強要されていなかったが、短大はもちろんのこと大学の授業も受講できることとなっていた。

女子短期大学第1校舎前
女子短期大学第1校舎と松陰橋

短大や高等専門学校などの高等教育機関において一定の学習を修め、その「まとまりのある学修」の成果をもとに、さらに大学の科目等履修生制度の利用や大学評価・学位授与機構(現在の大学改革支援・学位授与機構)が認定した専攻科(認定専攻科)などにおいて所定の単位を修得し、かつ機構が行う審査の結果、大学卒業者と同等以上の学力を有すると認められた場合には学士の学位を授与されることとなった。その制度の発足と、研究生の身分が社会的に曖昧であったこと、体系的な学修をもとにさらに学生の資質を高めていきたいという思いが強くなってきたことから、研究生制度を廃止して専攻科を設置することとなった。そして、1994(平成6)年に大学評価・学位授与機構の認定を受けた修業年限1年の専攻科を設置した。名称は短大専攻科教養専攻であった。

5.短大の廃止

学校教育法において短大は「職業又は実際生活に必要な能力を育成する」ことを目的とする大学と位置づけられている。そのため短大には、実践的で効率的なカリキュラム、多様な進路など大学とは異なる特徴がたくさんあった。また、時代の変化に即応した学科、専攻やコースを開設し、フレキシブルな教育を展開していた。特にバブル経済まっただ中の時代には女子の短大卒業生の方が、4年制大学卒業の女子よりも就職においては人気があった。しかし、世の中の景気が後退すると、学生の就職難が顕著となり、それに伴って女子の高学歴志向が高まってきた。また、男女機会均等の流れが加速し、社会における男女の役割の区別がつかなくなってきた。さらに少子化が進み、4年制大学への入学がやさしくなった。大学側も経営安定化を図らねばならないことから、2年間しかない短大よりも4年間という長期の期間に渡って安定的に学費収入を確保できる大学により魅力を感じ始めていた。特に短大の人気が下降し、短大の学生確保が難しくなるにつれ、短大の廃止、4年制大学への改組が加速して起こってきた。例えば、1990年代初めに東京女子大学が短期大学部を廃止、その後学習院女子短期大学は女子大学へと改組、さらに明治大学が明治短期大学部を廃止した。

三角点からの女子短期大学第1校舎(左)と礼拝堂

このような短大を取り巻く状況の中、本学の短大は就職率が高かったこともあり、学生確保には苦労していなかった。しかし、急激な少子化など今後の状況を鑑み、まだまだ安定的に学生を確保できるうちに発展的に短大を改組すべきという考えが強くなっていった。そして、2003(平成15)年4月1日付で短大の教養科、幼児教育科の学生募集を停止し、教養科は文学部リベラルアーツ学科に、幼児教育科は教育学部乳幼児発達学科にそれぞれ改組することとなった。こうして本学の短大は、2004(平成16)年11月30日付で廃止となった。1965(昭和40)年の短大設立以来、約14,000名の卒業生を送り出し、その役目を終えた。

6.玉川学園女子短期大学のあゆみ

1965(昭和40)年 玉川学園女子短期大学(教養科)開設
1966(昭和41)年 玉川学園女子短期大学専用校舎(現在の大学9号館)完成
1967(昭和42)年 保育科増設
1985(昭和60)年 保育科を幼児教育科に名称変更
1991(平成3)年 米国での夏期短期語学研修開始
1994(平成6)年 専攻科開設
2000(平成12)年 全学生にコンピュータ所持を義務化
2003(平成15)年 教養科は文学部リベラルアーツ学科へ、幼児教育科は教育学部乳幼児発達学科へ改組
2004(平成16)年 玉川学園女子短期大学廃止

参考文献

  • 小原國芳著『日本女性の理想』 玉川大学出版部 1937年
  • 小原國芳編『女性日本』(1937年2月号) 玉川大学出版部 1937年
  • 佐藤一彦著「感動のある教育を―玉川学園女子短期大学の教育―」(『全人教育』494号 玉川大学出版部 1989年 に所収)
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年

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