玉川大学・玉川学園Webサイト
IEサポート終了のお知らせ

玉川大学・玉川学園webサイトTOPページリニューアルに伴い、Microsoft 社の Internet Explorer(以下、IE)のサポートを終了いたしました。本学園が運営するサイトをIEで閲覧した場合正しく表示されない恐れがございます。
皆様にはご不便をおかけしますが、別のブラウザを利用しての閲覧をお願いいたします。

玉川大学の変遷 Ⅱ 1959(昭和34)年~2000(平成12)年

2017.06.13

1962(昭和37)年に工学部が誕生し、玉川大学は文学部、農学部、工学部の3学部体制となった。さらに1967(昭和42)年には大学院、1979(昭和54)年には芸術専攻科がそれぞれ開設された。

1.工学部の誕生

1979(昭和54)年頃の工学部校舎

玉川大学が開学する以前から、玉川学園では興亜工業大学玉川工業専門学校において工学教育を行ってきた。そうした中で1960年代に入り、日本は高度経済成長に伴い工業の分野が大きく躍進。新しい工業国に欠かせない有能な科学技術者を養成するために「玉川大学にも工学部を」という気運が学内にも高まってきた。

小原國芳は「資源の乏しい日本においては真実の科学技術日本を実現する他にない」という技術日本・産業立国の国是から、「欧米の科学技術を凌駕し得る素地を有する」という日本人特有の技術に堪能な勘の鋭い国民性から、「全人教育、宗教教育教育の12信条」という過去30余年の玉川教育の実績から、そして「幼稚園から大学までを受験勉強に費やすことなく創造的、科学的、技術的才能を伸ばせる」という18年間の一貫教育の立場から、工学部の設立を決断したと語っている。こうして1962(昭和37)年、玉川大学に工学部が誕生した。工学部に最初に設置されたのは機械工学科、電子工学科、経営工学科の3学科であった。工学部開設とともに、文学部、農学部とあわせ、1年課程は教養部として独立させたため、新入生は教養部校舎に入った。その間に工学部校舎の建設は進み、1963(昭和38)年秋より、2年生は新工学部校舎に移転、本格的な授業が始まった。工学部の開設は、玉川大学を名実ともに総合大学とし、幼稚園から大学までの一貫教育の完成という意味で大きな意義を持つとともに、併設の幼稚部、小学部、中学部、高等部の規模の拡大に直接的に影響をおよぼし、玉川学園の大発展の転機をなしたともいえる。

2.学科の増設

1964(昭和39)年、東京オリンピック開催の年に、文学部に芸術学科、農学部に農芸化学科を増設した。芸術学科については、玉川の芸術教育の一貫性を体系化するとの構想から設置が決まった。芸術学科は、音楽、美術、演劇、芸術学の4専攻で構成されていた。農芸化学科については、それまで農学科の中の専門分野の一つであったが、履修する学生が増えたため独立することとなった。

1972(昭和47)年には、文学部に外国語学科、工学部に情報通信工学科を増設した。外国語学科の設置の理由は次のとおりである。玉川学園の教育信条の一つである国際教育の見地から英米文学科が設置され語学教育を併せ指導がなされていたが、世界の情勢に対応していくには、より豊かな語学力、広い視野と新しい気概をもった国際人の養成が求められ新学科の設置が必要となった。情報通信工学科は、工学部開設満10年を迎え、次の理由から設置することとなった。情報通信機器、電子機器の急速な発展と普及に伴って高速、大規模な情報処理システムが工学分野のみならず、あらゆる分野に応用されるようになった。この情報化時代を迎えて、玉川大学ではすでに電子工学科に情報・通信工学の講座をおいて研究、技術指導を行ってきたが、さらにこれを拡充発展して情報通信工学として独立し、情報化時代の要請に応えるべく高度の研究者、技術者を育成することとなった。

小原國芳学長とのクラス懇談会
外国語学科が使用していた文学部第3校舎(右)と図書館/1979年

3.大学院の開設

玉川大学に大学院が開設されたのは1967(昭和42)年4月。学部の授業を基盤に、より高度の技術者、研究者を育成することを目的として、工学研究科機械工学専攻、電子工学専攻(1995年に電子情報工学専攻に名称変更)が設置された。いずれも修士課程であった。玉川大学初の大学院設置で、第1期生の入学式は工学部講堂で挙行された。さらにその5年後の1972(昭和47)年4月に電子工学専攻博士課程を開設。1980(昭和55)年4月には電子工学専攻博士課程(1983年3月31日付廃止)を学生募集停止し、生産開発工学専攻博士課程を開設した。これにより電子工学専攻修士課程だけでなく、機械工学専攻修士課程修了者の博士課程での研究の継続が可能となった。2007(平成19)年、生産開発工学専攻博士課程(2009年3月31日付廃止)を学生募集停止し、脳情報専攻博士課程およびシステム科学専攻博士課程を開設。

1971(昭和46)年4月、文学部教育学科卒業生の進学先として文学研究科教育学専攻修士課程を開設。玉川大学としては、制度的また理念的には、1952(昭和27)年から教育学専攻の修士課程を新設することは可能であり、小原國芳学長もかねがね教育学科は玉川の目玉であると言われ、理論面、実践面ともに強い、いわゆる「学も術も」兼備した大学院修了者によって、教育界に新風を送りたいとの念願を持ち続けていた。しかし、当時は教育学科の卒業生が少なかったこともあり、実際の教育学専攻修士課程の設置は1971(昭和46)年まで待つこととなった。教育学専攻設置の翌年、文学部英米文学科の卒業生の進学先として英文学専攻修士課程を開設した。さらに次の年に、研究科に教育学専攻博士課程を開設。当時、國芳は、教育学専攻修士課程に現職教員の入学できる方策を講じて、多くの優秀な人材を教育界に送り出したいと考えていたが、国の制度がまだ整備されていなかった。2008(平成20)年、教職大学院制度の発足を受けて、その制度スタート時に教職大学院(教育学研究科教職専攻専門職学位課程)を開設した。2006(平成18)年、文学研究科教育学専攻修士課程(2007年3月31日付廃止)を学生募集停止し、教育学研究科教育学専攻修士課程を開設。同年、文学研究科に哲学専攻修士課程を開設した。文学研究科教育学専攻博士課程についてはニーズがなくなったことにより2009年3月31日付で廃止とした。

農学部を基礎とした大学院、研究科の設置は早くから考えられていたが、具体的に検討会が開かれたのは1975(昭和50)年4月からで、翌年の11月末に文部省へ設置認可申請書類を提出、1977(昭和52)年3月30日に農学研究科の設置が認可された。当初、農学部がウイルス、微生物から植物、虫、魚、鳥、哺乳類、人間に至るまでの地球上のあらゆる生命を対象としている「生命の応用科学」の分野を受けもっていたので、生命科学を土台としたユニークで広範な研究科の博士課程の開設を目標とした。しかし、将来の発展を期して、初期は経験と充実の期間として堅実に進めることが考慮され、修士課程として発足することとなった。そして、1977(昭和52)年に農学研究科資源生物学専攻修士課程を、1979(昭和54)年に農学研究科資源生物学専攻博士課程を開設。専攻は、農学部の農学科、農芸化学科の両科の教育・研究内容を網羅した資源生物学専攻のみの一研究科に一専攻の構成となった。

4.芸術専攻科の開設

1979年頃の芸術学科使用校舎

1979(昭和54)年に芸術専攻科芸術専攻を開設した。芸術専攻科は、4年間の学部の授業によって専門分野の基礎を修得した者に対し、さらに1年間の一層進んだ専門教育を与えようとする専攻である。その目指すところは、まず専門家として自立できる創造的表現力の育成で、表現能力の涵養は理論と実践の統一的学習によってもたされる。芸術専攻科の専門分野は、音楽分野、美術分野、舞台芸術分野の3分野。修業年限は1年であるが、「音楽」と「美術」の中学校教諭専修免許と高等学校教諭専修免許を取得することも可能である。

5.臨時的定員の恒常定員化

18歳人口がピークを迎え、また大学不合格者が増加したため、1991(平成3)年、文部省(現在の文部科学省)は高等教育政策として各大学の臨時的定員増による量的充実を推進。臨時的定員増は、後に18歳人口が減少することを前提とした一時的な措置であったが、その終了時に公立大学と私立大学においては臨時的定員の半分を恒常定員化することが認められた。

本学では、1992(平成4)年に大学で380人、短期大学で75人の臨時的定員を設定した。したがって、入学定員は恒常定員と臨時的定員を合算した人数となった。各学部・学科の臨時的定員数は、文学部の4学科が各60人、農学部の2学科が各30人、工学部の4学科が各20人、短期大学の教養科が75人。短期大学の幼児教育科には臨時的定員は設定されなかった。臨時的定員は1999(平成11)年に終了、大学は半分の190人を恒常定員化した。短期大学は定員が少ないことから75人の臨時的定員のうち50人の恒常定員化が認められた。恒常化した定員を除いた臨時的定員は、以後2004(平成16)年までに段階的に返上された。

参考文献

  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園50年史(写真編)』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園編『玉川教育: 玉川学園三十年』 玉川学園 1960年
  • 日経BP企画編『玉川学園創立80周年記念誌―そして未来へ』 学校法人玉川学園 2010年

シェアする