学校劇『青い鳥』

2018.04.19

メーテルリンク作の「青い鳥」は、世界中の人たちから愛されている作品。真実の幸福を求めて遍歴する、チルチルとミチルの物語。6幕10場の大作。玉川学園では学校劇として3度上演している。

1.玉川学園と学校劇

学校劇集

玉川学園創立者小原國芳が広島高等師範学校付属小学校の理事をしていた時に、そこで行われていた年2回の学芸会を「学校劇」と名付けた。それまで子供たちの劇は、「児童劇」や「唱歌劇」などさまざまな名称で呼ばれていた。やがて「学校劇」という名称は、先生方に受け入れられ、全国に広まっていった。國芳著『教育一路』(玉川大学出版部発行)には、「学校劇」について、次のような記述がある。

学芸会は方々にありましたが、私の主張は、国語、文学、歴史、唱歌、舞踊、体操、図工などを一つに統合した総合芸術としての学校劇を考え、真善美と創造力を養う重要な教科にしようというもの。この呼びかけは、大正末から昭和の前期にかけて、燎原の火のように全国に広まることになりました。私が『学校劇論』なる一書を刊行したのは、大正十年ごろ。日本新劇の育ての親、小山内薫さんは、旅行中に拙著を読み、喜びのはがきを下さったことがありました。

また、『全人』第240号(玉川大学出版部発行/1969年)には、「学校劇」について、次のように記されている。

私は劇を通して、宗教的、道徳的情操を養いたいと考えて、新教育六十年、実践して来ました。

2.「青い鳥」とは

「青い鳥」は、ベルギーの劇作家モーリス・メーテルリンク(1911年にノーベル文学賞を受賞)が、1909(明治42)年に発表した作品。真実の幸福を求めて遍歴する、チルチルとミチルの物語。チルチルとミチルの兄妹が、幸福の象徴である青い鳥を探しに、夢の中で過去や未来の国に行く。しかし、青い鳥はみつからない。やがて、朝になり、二人が目を覚ますと、木こり小屋の鳥籠の中に青い鳥が。 青い鳥は、すぐそばにいた。つまり幸せは、自分たちの身近にあるとメーテルリンクはこの作品を通して伝えている。もともとは大人向けに書いたものを、メーテルリンクが子供向けの劇に書き直して、世界中で大ヒットした。

3.「青い鳥」と玉川学園

1936(昭和11)年に上演された「青い鳥」

玉川学園で初めて「青い鳥」が上演されたのは、1936(昭和11)年2月9日開催の玉川学園祭でのこと。ただし、「思い出の国」一幕だけの上演。演出は斎田喬、場所は九段会館の前身である軍人会館。この時の「青い鳥」について、『全人』第240号(玉川大学出版部発行/1969年)に岡田陽が次のように記述している。

小原園長の香川師範時代のお弟子の一人である児童劇作家の斎田喬先生が演出なさっている。二十名たらずのスタッフ、キャストの中には、いま作家として活躍しておられる西原康、松宮梓、キノトールの諸氏、俳優の松宮五郎氏、今回の上演(1969年の「青い鳥」公演)で振付を担当している学園舞踊教師の岡田純子もアカンボ役となってハイハイしながら登場している。

それから約20年、「青い鳥」は、玉川学園創立30周年記念の学校劇として1959(昭和34)年2月14日・15日に九段会館ホールで、「墓場の場」を除いた全幕(6幕10場)を通して上演された。演出は岡田陽。さらに7月23日、24日の両日、都市センターホールにて再演。2月と7月をあわせて全8回の公演となった。

妖婆の家の立ちげいこ
夜のお宮の総げいこ
幸福の国の総げいこ
思い出の国の舞台げいこ

この時のパンフレットに、岡田が次のように書いている。

このたびの上演に際し、私は演出者として、教師として、たくましく明るい、そしてたのしい「青い鳥」をねがっている。ひよわなロマンチズムや、深刻ぶったペダンティックな解釈よりも、前進、開拓、創造の意欲に燃えた健康明朗なチルチル、ミチルにしたい。
チルチルをやる中学一年の方(かた)少年は、チビでヤセッポで見かけは立派とはいえないが、昨春はるばる関西から単身入塾し、今や厳寒の早朝、井戸端で洗濯にいそしむ半ズボン姿の塾生である。このたくましい玉川っ子の生活力を、そのまま舞台に汪溢させてみたいと願うのである。
衣裳デザインを父兄の中原淳一先生がやってくださった。斯界の権威にデザインしていただくという、とてつもない果報は、まったく学校ならではのありがたさである。

また、この時の「青い鳥」について、『全人』第116号(玉川大学出版部発行/1959年)に掲載されている何人かの方たちのコメントを以下に紹介する。

【葦原邦子さん(女優)】
  • この「青い鳥」で衣裳デザインを担当した中原淳一氏の夫人。

「玉川の集い」で「青い鳥」をやろうと思うが、衣裳の方を少し手伝って貰えないだろうか、という岡田先生のお電話に、私は受話器を持ったまま目をみはったのでした。
「ヘェー!あんな大物を、よく、まあ・・・」と。
然し、当日のプログラムの中で、岡田先生のお言葉を拝見したら、なるほど、と頷けたし、またこうしたものをとりあげようという意欲こそ、玉川のものだという感を深くしたのでした。

【岡田陽先生(この「青い鳥」を演出)】

今年は玉川学園三十周年。いままでの集大成の意味もこめて、ぜひ大作にとっくんでみたい――上演時間三時間半、六幕十場の名作劇「青い鳥」。
今度の劇には、特に玉川学園三十年の歴史と、夢多きその未来を象徴する意味をもたせたい――そういう欲張った要求に、ズバリと応えてくれる劇「青い鳥」。
         (略)
モスクワ芸術座が初演し、小山内薫演出で築地小劇場の舞台にものった文豪メーテルリンクの本格的戯曲「青い鳥」。
舞台監督、金平、余合。舞台装置、長野。音楽、野宮。照明、中村という、ここ数年来のスタッフ陣のチーフは健在だが、演劇グループのベテランの大半が卒業し、演技陣は新鋭をもって構成していかなければならない。幸い学校のありがたさ、個性豊かなタレントには事かかない。各人の個性と気迫のおりなすアンサンブル。二百名ちかい登場人物もなんのその――幼稚園から大学生まで、うんとたくさん出れる劇「青い鳥」。
そうだ、玉川学園三十周年記念の学校劇として是非「青い鳥」を――今日の玉川の若き情熱は、きっとこれに共鳴してくれるにちがいない――。

【方勝さん(当時中学部1年生)】
  • 主役のチルチルを演じ、後に玉川大学芸術学部教授。

岡田先生から「方、青い鳥のチルチルをやらないか」といわれて、ぼくはおどろいた。ぼくは玉川にきて、まだ一年もたっていないし、演劇部でもない。第一セリフがおぼえられそうもない。
         (略)
ぼくはたいしてあがっていなかった。ベルがなって、オーケストラがはじまり、幕がすーっとあがると、ぼくは何だか、とってもゆかいになってきた。

【浜田光夫さん(当時中学部3年生)】
  • この「青い鳥」では犬役を演じ、後に『キューポラのある街』『愛と死をみつめて』など吉永小百合さんと40回以上共演し、日活映画黄金時代を支えた。百貨店の劇場での公演「青い鳥」を観て興味を持ち、楽屋を訪問した際にスカウトされ劇団東童に入団したことがきっかけとなって映画界入りした。

「浜田は犬だ」といわれて、おどろいた。今まで、いろいろな役をやったが、すくなくとも人間だった。だからすこしは共通する面もあったが、今度はそうはいかない。僕は全然といっていいくらい見通しがつかなかった。
        (略)
「まず、ほんものの犬をよく見ること」といわれた。何だかこわい気がしたが、猛然とファイトがわいてきた。

【1959(昭和34)年2月14日・15日に九段会館ホールで上演された「青い鳥」】

第一幕 きこり小屋

クリスマスの夜
妖婆があらわれる
魔法のダイヤのついた帽子をもらう
ダイヤをまわすと妖婆は美しい姿に変身
光の精があらわれる

第二幕一場 妖婆の家

チルチル、ミチルは思い出の国へと出発する
犬(右側)
左から光、チルチル、ミチル、犬
中央が猫
砂糖
パン
牛乳

第二幕二場 思い出の国

懐かしい人たちがいる思い出の国には、本当の青い鳥はいなかった

第三幕一場 夜のお宮

猫は先回りして夜の精に告げ口をする
戦争の閉じ込めてある戸を開けると
おそろしい力が押し寄せてきた
夢の花園の月光の下にはたくさんの青い鳥が飛んでいた
せっかく捕まえた青い鳥はみんな死んでしまった。
チルチルは悲しむが、また勇気を奮い起こした。

第三幕二場 森

森の中のチルチルとミチル
森の木や動物たちの精が集まって、
チルチルを殺そうと相談する
犬は傷つきながらも森の精からチルチルたちを守る

第四幕 幸福の御殿

大騒ぎするぜいたくたち(ぜいたくおどり)
小さなこどものしあわせ
家庭の中にいる幸福たち
一番美しい母の愛の幸福

第五幕 未来の国

なにかの使命をもって、これから生まれようとしている子たちの国
生れる子を乗せた船が出航したとき、時の精はチルチルたちを見つけ出しておこる

第六幕一場 悲しい別れ

第六幕二場 めざめ

いつもの朝のように母親に揺り起こされたチルチルとミチルは、自分の家の窓の鳥籠に青い鳥がいるのを発見した
病身のとなりの女の子に青い鳥をあげる
みなさん!青い鳥がどこかで見つかったら、どうぞぼくたちに返してください。
青い鳥はぼくたちの幸福のために、どうしてもいるのですから

フィナーレ

それから10年後の1969(昭和44)年6月16日、17日および21日、22日に、玉川学園創立40周年記念演劇発表会として「青い鳥」の全6回の公演が行われた。場所は都市センターホール。総合学園劇にふさわしく、小学生から大学生まで約200名が出演。この時の「青い鳥」について、『全人教育』第240号(玉川大学出版部発行/1969年)の巻頭言に小原國芳は次のような文章を載せている。

「青い鳥」は童話戯曲であり、六幕一二景。一九〇八年にモスクワ芸術座でスタニスラフスキーの演出によって初演されました。大成功で、世界的になりました。
日本での初演は一九二〇年(大正九年)有楽座で。チルチルは水谷八重子。ミチルは夏川静枝。今回はそれから四十九年ぶりでしたが、当時のミチルを演じた夏川さんは、わざわざ見に来て下さいました。
      (略)
「青い鳥」は、単なる子供だましの所謂オトギ話ではなく、永遠の書です。子供心に生涯、消ゆることなき人間心を、美しい人生観を、全人心を与えてくれます。子供のみならず、われわれ大人のための修身書であり、人間学です。

また、同号に掲載されている方たちの「青い鳥」に関するコメントをいくつか以下に紹介する。

【岡田陽先生(この「青い鳥」を演出、当時玉川大学教授、玉川学園中学部長)】

玉川三十周年の際の上演は、十年前の事なので記憶しておられる方もかなりあると思うが、綜合学園劇の特長を充分に発揮した清純な熱っぽさを心よいものとして評価してくださった方が多かった。
その時中学一年でチルチル役をやった方勝君は、現在玉川大学芸術学科の助手として、今回の公演では照明を担当し、すぐれたセンスを見せた。犬をやった浜田光夫君、火をやった樋浦勉君、砂糖の渡辺昌樹君などは俳優。猫の浜田さん、水の小峰さん、幸福の岡本君などは舞踊家。妖婆の大川君、パンの山西君などはデザイナー。照明の松尾君、幸福の青柳君、水藻君などはそれぞれTVディレクターに。芸能界で活躍している人々も多士済々だが、他の諸君も社会のさまざまな分野で立派な仕事をしてくれていてうれしい。
        (略)
本年四十周年をむかえた玉川の「青い鳥」は、単純な「幸福」の象徴としての「青い鳥」では既にあり得ない。
        (略)
今日の「青い鳥」は、単純明解なおはなしではあり得ない。けわしく、きびしい苦渋の道を、一歩でも進もうとする姿勢が、玉川四十周年の「青い鳥」であった。願わくば青い鳥よ、これを演じ、これを見てくれた学生、生徒、児童諸君の心深くに育て!

【夏川静枝さん(女優)】
  • 日本での「青い鳥」の初演でミチル役を演じた。

ミチルはもうやれない迄もプロデュースをやってみたい、弟は演出をやってみたいと大それた望みを持つ様になりました。
      (略)
お金のかかる劇だけに個人の力ではとてもやれないとさとって、私と弟はただ語り合い、想像し合って自分達の夢をふくらませて楽しんでいました。
それがこの度の「青い鳥」上演の御通知で私達の永年の夢をどういう風に実現して下さるか胸をときめかせながら劇場へ行きました。
場内はもう満員で座席がなくて両側に沢山の若い人達が立っていました。こんな光景は近頃の劇場にはない事です。
五十人以上ものオーケストラで幕開きのテーマが演奏される豪華さに先ず目を見張りました。生の音楽で幕の上るという事は初めから客の心をつかんでしまう事で、決定的な劇の成功を物語っていました。
      (略)
私達がこの「青い鳥」を好きだった様に、園長先生も同じ思いで三回も上演して下さった事を考えますと、うれしくてなりません。カーテンコールでは私は思わず涙さえ出て来ました。
こんな立派な「青い鳥」を見せて頂いて、私達の長い間の夢もかない、もうこれで満足だと思いました。

【坂東三津五郎さん(八代目/人間国宝/歌舞伎俳優/玉川大学名誉教授)】
  • 少年時代、小山内薫の私塾で学んだ。小山内薫は、1925(大正14)年12月に築地小劇場にて上演された「青い鳥」を演出した。

此時点で青い鳥をやるとは、岡田先生やりましたな、と思った。しかも小学生から中学生、大学生まで、全部で舞台から照明、オーケストラ、小道具、全部を先生と学生とでやったのだ。演劇とは作る喜び、作り上げるまでの苦しみが喜びにつながる。それを先生と学生が協力してやったのだ。立派なものだ。
演技の巧拙などは問題ではない。こんな立派な芝居を作り上げるところに意味があるのだ。自分の子供が学生運動に加わって、なげいている親たちが見たら、こんな学校もあったのかとさだめし驚くことだろう。今の世の奇跡それがこの「青い鳥」だ。
         (略)
世の中の人全部に見せてやりたい。舞台だけでは無い、客席も廊下も、受付も、入口も青い鳥が生んだ奇跡、ではない小原先生が産んだ奇跡、小原先生にとっては不思議でも、なんでもないのだろう。今の世の中、他の学校がどうかしているのだと、私はつねに思っていたが。玉川学園というもの、演劇、音楽、舞踊、美術といろいろあらゆる芸術の総合というものが、全人教育というものが、かくも美事な実りを見せてくれるとは。幕切れに舞台に立った小原先生を見て、実に、うらやましく思った。
         (略)
小原先生は幸福そのもの、青い鳥の、光のように小さな子供から、大学生にまでかこまれて、それには長い苦難の道を通って来られた、喜びと、ほほ笑み、私は涙をふくことも忘れ、手をたたき続けた。

知恵のダイヤをまわすチルチル
光とチルチル、ミチル
妖婆の家
妖婆の家
思い出の国
夜のお宮
幸福の御殿
未来の国
目ざめ
目ざめ
フィナーレ
【参考】

「青い鳥」は世界各国で翻訳され、多くの人たちに読まれ、また舞台公演としてたくさんの観客を集めた。日本語訳も数多くの人が手がけた。例えば、1946(昭和21)年に小原國芳が桜菊書院より、1960(昭和35)年に堀口大學が新潮文庫より、1975(昭和50)年に岡田陽が玉川大学出版部より、それぞれ日本語訳書を出版している。
また、「青い鳥」は無声映画時代から何度も映画化されている。特に有名なのが、1940(昭和15)年作のシャーリー・テンプル主演の作品、そして1976(昭和51)年作のエリザベス・テーラー主演の作品。両作品とも英語原題は「The Blue Bird」。
なお、メーテルリンクは「青い鳥」の続編を執筆。タイトルは「チルチルの青春」。

関連サイト

参考文献

  • 小原國芳著『教育一路』(玉川大学出版部) 1980年
  • 小原國芳著『小原國芳自伝(2)』(玉川大学出版部)1967年
  • 岡田陽、岡田純子編『演劇と舞踊―玉川教育―』(玉川大学出版部) 1965年
  • 南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』(玉川大学出版部) 1977年
  • 小原國芳監修『全人』第116号(玉川大学出版部) 1959年
  • 小原國芳監修『全人』第240号(玉川大学出版部) 1969年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』(玉川学園) 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史(写真編)』(玉川学園) 1980年
  • 『玉川教育 ―玉川学園三十年―』(玉川大学出版部) 1961年