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村の第一夜

2018.07.24

諸君、新しい日本を動かすべき力はここから生れなければならない。いや、必ず生れると僕は信ずる。・・・やろうじゃないか。1929年の3月31日という日を、世界歴史の一頁に、必ず書き落とすことの出来ない日としようじゃないか。・・・僕等がこれからなしとげる仕事の大小は、恐らく今夜の決心の大小によって殆ど決まるだろう。

1.玉川学園の誕生

調和のとれた人間形成を目指す学校を、自らの手で、一からつくりたい。労作教育塾教育の実践の場を得て、より人間的な真(マコト)の教育をしたい。小原國芳が「夢の学校」建設に着手したのは、成城高校の校長を務めていた42歳のときであった。そして彼が思い描いた「夢の学校」は、1929(昭和4)年4月、玉川学園として産声を上げることとなる。

ゆめの学校

学園建設は無一文からの出発であった。多額の借金をして、東京府南多摩郡町田町本町田(現在の町田市内)周辺に30万坪の土地を手に入れ、小田急電鉄と交渉し、駅敷地及び駅舎を提供して小田急線「玉川学園前駅」を新設することを確約してもらい、財団法人「玉川学園」を設立。中学校、小学校、幼稚園の新設認可のための請願書の作成、校舎や職員住宅兼塾舎の建築など、小原國芳の陣頭指揮の下、教職員たちは限られた時間のなかで、獅子奮迅の働きをすることとなる。

夢の学園建設

玉川大学出版部発行の機関誌『全人教育』第247号の「成城の開拓と玉川の誕生(5)」(潟山盛吉著)に、潟山の運転で國芳が開拓前の玉川の丘を訪れた時のことが、次のように記されている。

南大谷の現在自動車学校のある辺りか、本町田の養運寺と云うお寺を少し入ったところまでしか道はないのです。車を駐車し、道なき道を歩くわけです。今の商店街のあたりは沼地。それに棚田地帯でした。田んぼの土堤から沼地へ飛び下り飛び上り、靴はどろまみれ、春先の温い頃になるとニョロニョロと蛇。
      (略)
そして此の山、向うの丘、松、杉、桧、それに雑木、林、草、カツラの多い原始林見たような山、草をかきわけ、雑木の枝にほほをはじかれ乍ら、もうその頃には夕闇せまる時刻。足下からパタパタパタとコジュケイが飛出す。ビックリ、驚かされる。時には兎が走り出す。百姓家一軒ないほんとに淋しいところでした。
      (略)
あの山に中学部、あの丘に礼拝堂。あの谷に牛舎、あそこの陽当りの良いところに職員住宅、と云う塩梅で、私に話され乍ら、実に細かく、隅から隅迄歩かれるものでした。何十回こうした、下見が続きました事か。

昭和3年学園用地の視察
玉川学園耕地整理事務所

1929年3月31日、小原國芳の家族をはじめ教員の3家族や若い塾生など、あわせて20余人が玉川学園村に移り住んだ。それは文字通り、移住というにふさわしかった。まだ玉川学園前駅も開業していないので荷物はトラックで、國芳らは長い道のりを歩いて村にたどりついた。新校舎を建設しているとはいえ、山林も同然の土地であり、それまでは村の小学生がはるばる遠足に出かけるような場所であった。この日を境に、玉川学園村には夜、数軒の家に明かりが灯り始めた。

創立当時の國芳と家族
いこいのひととき

翌4月1日には、玉川学園前駅が開業した。4月4日、開校式を目前にして、田尾一一(かずいち)による作詞で、岡本敏明の作曲による玉川学園校歌も誕生した。4月8日には開園入学式が執り行われた。幼稚園児8人、小学生10人、中学生80人、塾生13人、全員で生徒数は111人。新築の校舎には木の香りが満ちており、新入生とその親たちが希望を胸に続々と集まってきた。地域住民も大勢、祝福に駆けつけたという。

玉川学園前駅が開業

2.小原國芳と先生方の決意

玉川学園創設の1929(昭和4)年6月25日に創刊された機関誌『學園日記』には、「村の第一夜」(書上喜太郎著)というタイトルで、玉川学園創設に向けて國芳たちが玉川学園村に移住して来たときの様子が、以下のように記述されている。

玉川學園村草分けの先發隊として、小原先生初め伊藤先生、松本先生の三家族、それに獨身の先生方や若い塾生たち、併せて二十餘名がいよいよ移住して來たのは三月三十一日であつた。それは、まことに移住と云ふにふさわしかつた。まだこの日は小田急の玉川學園前驛も開業してゐないので、荷物は砧村からトラツクの行列が多摩川二子の橋を渡つて走り、人は鶴川かまたは原町田の驛から、いづれも二十五六丁の道を歩いて村に入つた。小さい子供たちは、父や母の手に引かれて山を越え、子供として初めての長距離行軍に、よくぞ「おんぶ」もねだらず強く歩いて來たと皆にほめられた。
        (略)
殊に食後一時間にわたる小原先生のお話は熱情溢れ、一同を感激に誘はずには置かなかつた。「・・・諸君、新しい日本を動かすべき力はこゝから生れなければならない。いや必ず生れると僕は信ずる。やらうと思へば出來るんだ。山よ來よと、山に命じたマホメット程の信念があれば、未來は必ずわれわれのものだ。歴史を造ると云ふのはこのことを云ふのだ。なあ、諸君。やらうぢやないか。一九二九年の三月三十一日と云ふ日を、世界歴史の一頁に、必ず書き落すことの出來ない日としようぢやないか。」
若い塾生たちは殊に涙を浮べ拳をにぎりしめて聞いてゐる。「・・・人間はその人間だけの仕事しか出來やしない。だがほんとうに眞劒にさへなれば、神の啓示が僕等を導いてくれるんだ。
僕等がこれからなしとげる仕事の大小は、恐らく今夜の決心の大小によつて殆んどきまるだらう。さあ、めいめいの心の中にある決心を、神の前に誓はうぢやないか。」

最初の夜、皆で食卓を囲み、上述のように語った國芳の言葉は、やがて現在の玉川学園の発展につながっていった。

創生期の玉川の丘

村の第一夜、そこに集い、永遠に記念すべき一夜を過ごした人たちは以下の通りである。

<職員およびその家族>
小原國芳(42歳)、哲郎(9歳)
伊藤孝一(31歳)、淳子(25歳)、能彦(3歳)、美保子(生後28日)
松本三千人(38歳)、あさ(36歳)、小百合(5歳)
書上喜太郎
福田二男
<塾生>
猪原 一(18歳)
平田正明(18歳)
安井永三(17歳)
大塚祐輔(13歳)

この他に鯵坂二夫や石井文男なども手伝いに来ていたが、夕食後に帰っていった。

玉川大学出版部発行の機関誌『全人教育』第293号の「玉川余話(1)」(加藤博著)に、玉川の丘のことが次のように記述されている。

聖山と三角点、この二つの山にのぼれば、武蔵野丘陵の東西南北を俯瞰することができる。東に首都を望み、南は相模湾に通じ、西北には丹沢、秩父の山々が見わたせる。僕は長年この地に住んでいるが、いつ見ても飽かない景色だ。そして、小原先生はよくこの地を選ばれたものだと感心する。決心がきまったとき、先生はどんな気持だったろう。
「天地創造――」そんな文句が浮び上ったかしら。
「汝はわが子、わが選びし者なり」こんな神の声を聞かれなかったかしら。たぶん聞かれたであろう。そして、この感動はそのまま職員や少年たちに受けつがれたわけだ。玉川塾――それは実にささやかな、かよわい存在であったが、その団結は固かった。そして、少年たちの胸中にあるものは、オレもいつかはやるぞという覇気であり、この優れた創立者と共に、世界に二つとない新しいものを創るのだという栄光の悦びであった。

聖山西面の玉川の丘
聖山東面の玉川の丘

関連サイト

参考文献

  • 書上喜太郎「村の第一夜」(『學園日記』第1號 玉川學園出版部 1929年 に所収)
  • 岡田陽「玉川学園創設前史」(『全人教育』 玉川大学出版部 に所収)
         ①No.333(1977年)、②No.337(1977年)、③No.341(1977年)
  • 岡田陽「玉川学園草創期」(『全人教育』 玉川大学出版部 に所収)
         ①No.351(1978年)、②No.358(1978年)、③No.359(1978年)
  • 加藤博「玉川余話」(『全人教育』 玉川大学出版部 に所収)
         ①No.293(1974年)、②No.294(1974年)、③No.295(1974年)、
         ④No.296(1974年)、⑤No.297(1974年)、⑥No.298(1974年)、
         ⑦No.301(1974年)
  • 潟山盛吉「成城の開拓と玉川の誕生」(『全人教育』 玉川大学出版部 に所収)
         ①No.241(1969年)、②No.242(1969年)、③No.245(1970年)、
         ④No.246(1970年)、⑤No.247(1970年)
  • 「玉川学園開発物語」(『全人』第669号 玉川大学出版部 2004年 に所収)
  • 白柳弘幸「故きを温ねて(35)」(『全人』No.669 玉川大学出版部 2004年 に所収)
  • 石田修大著『玉川学園 全人教育 夢への挑戦』 日経事業出版センター 2002年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史(写真編)』 玉川学園 1980年

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