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高等部の明倫塾

2019.06.11

中学部生や大学生との共同塾生活から、高等部生だけの部屋構成で塾生活を営むようになり、さらに1967(昭和42)年には高等部男子塾舎が完成して独立。その男子塾は1972(昭和47)年に明倫塾と命名された。

1.中学部生や大学生との共同塾生活

1929(昭和4)年4月8日の玉川学園開校式の翌日から塾生活が開始された。小原國芳著『玉川塾の教育』によれば、家元を離れて学内の宿泊施設で生活する生徒や児童を塾生と呼んでいた。1932(昭和7)年頃になると、教員宅にそれぞれ分かれて生活していた塾生は、全員が男子塾、女子塾というように一つの建物に集まり生活を共にするようになった。

中学部生、高等部生、大学生の共同塾生活は長く続いたが、塾生の数が増加し、中・高・大の教育計画の相違が著しくなったことから、塾の分離や独立の傾向が徐々に強まっていった。1960(昭和35)年に中学部塾生は独立した塾舎で、高等部も翌年の4月に男子塾生が大学の暁峰塾で高等部塾生だけの部屋構成で生活するようになった。高等部の専任教員が初めて舎監となり、全般的な塾生活は大学塾と歩調を合わせたが、高等部塾独自の行事も実施された。なお、高等部女子塾生は、大学塾内でこれまで通り生活を送っていた。

昭和35年頃の高等部校舎正面

1961(昭和36)年12月17日、暁峰塾は失火で全焼してしまう。生活をする場所を失った男子高等部塾生は学内の校舎等の教室を仮宿舎として塾生活を送る。舎監のほか高等部教員が交代で宿直に当った。

暁峰塾

1963(昭和38)年4月、暁峰塾跡に新塾舎が完成。部屋構成は1~3年生が混じった4名単位で、各階に大学生の部屋が一室設けられた。舎監は前年度までの全教員交代制を止めて、専任舎監として独身の教員5、6名を任命して交替で宿直を担当させた。女子塾生は、部屋は高等部生で構成しているが大学生の指導のもと塾生活を送っていた。

2.高等部男子塾舎が完成

1967(昭和42)年3月25日、新築成った高等部校舎に隣接して、鉄筋5階建ての高等部男子塾舎が完成した。1階は娯楽室と管理人室、2階から5階までは各階とも2人部屋1つ、4人部屋が6つ、中央には各階とも舎監室と相談室が配置されていた。主任舎監は1階に家族と共に、2階から5階までの各階には独身教員が1名ずつ居住した。塾生は104名、主任舎監以下5名の舎監と合わせて109名が共同生活を送った。週に一度の聖山礼拝や朝の会食など主要行事は大学塾に合わせたが、高等部男子塾としての独立した組織を持ち、100名余りの塾生の生活を支えた。

完成した高等部男子塾舎の正面玄関

高等部男子塾としての独立した組織を持ったことについて、『全人教育』第215号(玉川大学出版部発行)に次のように記されている。

もうここには、大学生は一人もいない。朝の礼拝、食事の時、指揮をとるのは、われわれ高等部生自身なのだ。新入生歓迎遠足の準備、これも前は、すべて大学生がやってくれていた。しかし、今度はわれわれがやるのだ。高等部生だけで総務を構成し、連日連夜のミーティング。バス代はいくらになるだろう。運転手さんへのチップは・・・・・・。向こうに着いてから何をやろう。雨が降ったらどうしよう。それらは、われわれにとってすべて初体験であった。話し合いの時、誰かがポツンと言った。
「自分でやってみると面倒なものなんだなあ。でも、随分勉強になるよ」
これだ!! 何でもやってみなければ、そこに生命は宿らない。
われわれ高等部塾生は、今男子塾誕生によって、今まで何となく過ごしてきたこの環境から、見失っていた生命を見出そうとしている。

当時の塾の一日は次のとおりである。

6時 起床、その後布団をたたみ、洗面、第一装に着換える

6時30分 塾玄関前に集合して整列、点呼

6時40分 月曜日は聖山、火曜日から土曜日までは屋上(時にはカッパ池)まで走り、礼拝及び体操

7時 会食(高等部塾ホールにて塾食堂から運ばれてくる食事を食べる)会食後、掃除及び労作

8時~15分 登校完了

8時30分 授業(昼食は塾食堂の弁当を教室で食べる)
授業終了後、クラブ活動、自由研究、塾に戻ってからは洗濯、入浴など自由時間

18時 会食(高等部塾ホールにて塾食堂から運ばれてくる食事を食べる)
夕食後は19時30分まで洗濯、入浴など自由時間

19時30分 自習時間(2時間30分)

22時 自由時間

22時30分 完全消灯、各階舎監による点呼

自習時間
会食

朝の礼拝のことが、『全人教育』第215号に次のように記述されている。

六時四十分、礼拝、一番太鼓の音を聞き、次の太鼓で、君が代斉唱。聖山の掲揚塔に白地に赤の国旗が美しく掲揚されるのを、屋上から遙かに注目。讃美歌そして黙禱、朝の体操が展開される。
遠く天城山から箱根、丹沢連山、相模川の上流にある甲斐の駒ケ嶽から、近くは高尾山、大菩薩峠。そして遙か日光連山まで一眸の中に見え、さらに屋上からは玉川学園全体が、あたかもパノラマのそれのように、美しく見渡せる。緑に包まれた聖山、赤い屋根の大体育館、近代建築の文学部、教養部、短大、工学部が玉川学園の発展をそのまま、塾生に教えてくれる。澄みきった朝の空気に、さらに厳粛さを感じさせる礼拝堂、同じ時刻に中学生が礼拝をやっているであろう三角点、小学部、中学部の校舎・・・・・・実に朝の景色は素晴しい。聖山から、三角点から、そして高等部の屋上から、玉川っ子たちの讃美歌が丘にこだまする。トンネルを抜ける小田急電車でさえ、何か新鮮な感じを与えてくれる。一日の出発はまず、こうして始まる。

旧高等部第一校舎屋上にて朝の礼拝
旧高等部第一校舎屋上にて朝の体操

同じく『全人教育』第215号に、学習時間のことが以下のように記載されている。

時間の長い短いではなく、いかに集中的な学習態度を身につけなければならないかを、塾生は良く知っている。ある新入塾生はこのことを、次のように訴えている。
「はたして、わずか二・三時間の勉強で良いのだろうか。通学生や他の学校の生徒との間に学力の差はつかないものだろうか。
不安でならない! これで、はたして社会に通用する能力を持つことは可能なのだろうか? そう考えているうちに、短い時間に能率をあげ、少しでも時間を作っていかねばならないことに気づいた」
そして、それに答えるように、三年生が言う
「たしかに時間は短いかも知れない。しかし、われわれは恵まれている。
主任舎監の酒井先生は数学、体育、二階の押田先生は理科、三階の大原先生は社会、四階の高橋先生は英語、五階の川端先生は数学。主要教科のほとんどの先生が、直接われわれの相談相手になって下さる。消灯後も特に申し出れば、各階の真中にある舎監相談室で勉強を継続することもできるのだ」

当時の塾の行事は以下のとおりである。

4月 対面式、新入生歓迎

5月 歓迎遠足、オリンピック大会

6月 東西のど自慢大会

7月 七夕祭、花火大会

9月 美化労作

10月 球技大会

12月 クリスマス、もちつき

1月 寒稽古(剣道、柔道)

2月 まめまき、塾卒業生送別会

  • 誕生会は月1回実施
  • 映画会は学期に2回実施
新塾舎の清掃

同じく『全人教育』第215号に、労作と清掃のことが以下のように記されている。

朝食後、直ちに全員で掃除と労作。新しい塾の周辺には、まだまだ労作の材料が沢山ある。部屋も廊下も、雑布で四ツん這いになって綺麗に磨きあげていく。
近代的な建物に、昔ながらの雑布がけ、およそ不釣合のように思えるが、塾生は塾草創当時の少年先輩たちを思いながら、せっせと床を雑布でふいていく。さながら、海軍の甲板磨きを思わせる光景でもある。ワックスを塗ってポリッシャーをかけるのに較べれば、たしかに能率的ではない。然し、教育の場に雑布がけの持つ意義は大きい。

新塾舎周辺の労作

1971(昭和46)年から高等部女子塾にも、専任高等部教員が常住。大学生の部屋もいくつかあったが、塾食堂横の桔梗塾を高等部女子塾とした。ただし、運営は大学塾の指導の下に行われた。1975(昭和50)年3月に閉鎖になるまで、高等部女子塾生はここで生活をした。

3.高等部の太鼓櫓が完成

高等部男子塾前の広場から西側の土手に階段があり、それを上がったところに、生徒たちの労作で太鼓櫓が造られた。造るにあたっては、大学塾の旧太鼓櫓の解体材を使用。太鼓も大学塾で使っていたものを張り替えた。太鼓櫓は2階建てで、ハシゴ状の階段を上る構造になっていた。

4.高等部男子塾を「明倫塾」と命名

1972(昭和47)年、高等部長に就任した岡田陽は、中学部塾の経験をもとに塾教育の改革に着手した。塾教育費の大幅増額改訂、部屋構成を学年単位に変更、塾生組織の改革、塾報の発行、自習室設置などの生活環境の整備、多彩な行事の計画など。1972(昭和47)年5月18日、高等部男子塾は明倫塾と命名され、上記の基本構想のもと運営がなされた。そして、大学塾から完全に独立することとなった。

洗濯

女子塾については、その運営が難しくなり、1975(昭和50)年3月をもって閉鎖することとなった。男子塾については、1979(昭和54)年から塾生の募集を停止。限られた生徒だけではなく、少なくとも男子生徒全員に一定の期間、集団生活を体験させ、塾教育の実を上げようと考えた。しかし男子塾も1981(昭和56)年度をもって閉鎖となった。

関連サイト

参考文献

  • 小原國芳著『玉川塾の教育』 玉川学園出版部 1930年
  • 小原國芳監修『全人教育』第215号 玉川大学出版部 1967年
  • 玉川学園編『玉川学園高等部 全人教育の実践』 玉川大学出版部 1980年
  • 塾編集委員会編『玉川学園 塾の歩み五十五年』 玉川大学・玉川学園女子短期大学塾 1985年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年

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