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全人教育100年

2021.07.20

「全人教育」は、1921(大正10)年に行われた八大教育主張講演会で、小原國芳が初めて提唱した教育理念である。提唱から2021年で100年。國芳は、「教育の内容には人間文化の全部を盛らねばなりませぬ。故に、教育は絶対に全人教育でなければなりませぬ。全人教育とは完全人格即ち調和ある人格の意味です」と語っている。「全人教育」という言葉は現在では一般名詞として広く使用され、その理念は教育界に大きな影響を与え続けている。

1.全人教育の誕生

「真善美聖健富」の書

現在では広く知られるようになった「全人教育」であるが、それを初めて公に語ったのは小原國芳であった。國芳は、34歳のときの1921年、東京高等師範学校(現在の筑波大学)の大講堂で行われた「八大教育主張講演会」(大日本学術協会主催)の講演で、教育には人間文化の全部を盛り込まなければならないと説き、教育の理想を「真」「善」「美」「聖」「健」「富」の6つの価値を調和的に創造することにあると位置付けた。

八大教育主張講演会で講演を行ったのは國芳をはじめとした教育改革に深い関心を持つ人たちだった。その多くは、教育現場の陣頭に立ち、理論上・実践上の苦闘を経験した教員や師範学校教員であった。8人のうち、4人が30代、3人が40代であったことからもわかるように、壇上に立ったのはいわゆる「第一線で活躍する若き教育者」であり、教育学者は一人もいなかった。八大教育主張は、教育界における大正デモクラシーが花開いた瞬間であった。

八大教育主張講演会

この講演会では、1.自学教育論(樋口長市)、2.自動教育論(河野清丸)、3.自由教育論(手塚岸衛)、4.一切衝動皆満足論(千葉命吉)、5.創造教育論(稲毛金七)、6.動的教育論(及川平治)、7.文芸教育論(片上伸)、8.全人教育論(小原國芳)といった、8つの教育主張が展開された。明治時代までの教育は、教師が中心となり、児童に学問を注入し、模倣させることをよしとしてきた。しかし、8人の論者は各自持論を展開、既存の教育に疑問を投げかけた。それぞれの主張には、当時の欧米の新教育思想や教授法の影響が見られるが、従来の教育学者のように翻訳紹介にとどまらず、自分の実践をふまえて自説を打ち出そうという意気込みが感じられた。また、8人の主張には、自由や創造性を尊び、成長の能力を重んじようとする、児童中心主義傾向を持つ点に共通性があった。

成城小学校の修身の授業での小原國芳(中央)
講演録『八大教育主張』

國芳の「全人教育」という言葉が聴衆の前に提示されたのは、このときが初めてであったが、その後、初等・中等教育の現場で、教育理念を語る言葉として広く流布するようになった。講演が行われた翌1922(大正11)年1月に講演録が『八大教育主張』と題して刊行された。この書籍は、従来の教育に飽き足らない向上心あふれる青年教師たちの関心を引き付け、約2年間に10版を重ねるほどの売れ行きとなった。当時の教育界がいかに新しい教育理論を渇望していたかがうかがえる。

この講演会には、夏の暑い盛りにもかかわらず、北は北海道から南は沖縄、さらには台湾や朝鮮、満州、樺太などの各地からも参加者が集まった。講演会当日は主催者側の予想を超えて、会場定員2,000人のところ5,500人にものぼる参加申込者が殺到するほどの盛況ぶりであった。國芳はのちに、当時を振り返り、次のように語っている。

集るもの恐らく四千名を越えたろう。大講堂ミッシリ。廊下もぴっしり。窓も鈴なり。熱狂そのものだった。ホントに湧き立った。考えてみると、八人もえらかったが、大正の教師たちは真剣だった。特に、小学校教師は! みな、身銭を切って、全国から集ったのだった。日本教育の頂上だったろう。上や外からの圧迫もひどかったのに、内から、下からの燃え上がりだった。
    (略)
世界に類例のない崇いものだった。

『八大教育主張:教育の名著』(玉川大学出版部発行)より

2.玉川学園の創立と全人教育

「全人」の書

小原國芳著『全人教育論』(玉川大学出版部発行)の冒頭に次のような一文が記されている。

教育の内容には人間文化の全部を盛らねばなりませぬ。故に、教育は絶対に全人教育でなければなりませぬ。全人教育とは完全人格即ち調和ある人格の意味です。

國芳は、従来の日本の教育には、人間教養が欠けているとし、全人教育によって偏重した教育を正道に戻し、真実の人間性を伸ばそうと考えた。塾教育をはじめ、特に従来の教育に欠けていた道徳教育、芸術教育、宗教教育、労作教育などを重視した。

小原國芳

調和のとれた人間形成を目指す学校を、自らの手で、一からつくりたい――國芳が「ゆめの学校」建設に着手したのは、成城高校の校長を務めていた42歳のときであった。それまでは、成城教育の充実、発展、完成、延長に取り組んでいたが、当時の成城学園が第一義としていたのは、帝国大学への入学を前提とした予備教育、すなわち受験教育であった。対して、國芳が理想としたのは、「労作教育の使命を果たすこと」「徹底した真人間の教育を行うこと」を重んじた教育であった。結果的には、國芳が思い描いた「ゆめの学校」は成城学園から独立し、1929(昭和4)年、玉川学園として産声を上げることとなった。

ゆめの学校
玉川学園開校式

國芳は、人間形成には真、善、美、聖、健、富の6つの価値を調和的に創造することが必要であるとし、それは学問、道徳、芸術、宗教、健康、生活の6方面の人間文化を、豊かに形成することと考えた。國芳はそのことを『全人教育論』の中で次のように記している。

人間文化には六方面があると思います。すなわち、学問、道徳、芸術、宗教、身体、生活の六方面。学問の理想は真であり、道徳の理想は善であり、芸術の理想は美であり、宗教の理想は聖であり、身体の理想は健であり、生活の理想は富であります。教育の理想はすなわち、真、善、美、聖、健、富の六つの価値を創造することだと思います。

『全人教育論』
玉川モットーと「真・善・美・聖・健・富」列柱

「ゆめの学校」の実現には、様々な困難が立ちはだかった。1929年の玉川学園創立当時は教職員18人と生徒111人、合わせてもわずか129人という小さな学校であった。創成期には教職員と生徒が寝食をともにし、一日の授業を終えると労作に明け暮れた。やぶを開墾して畑をつくり、薪を割り、道路を整備し、運動場を建設した。教師と生徒が一丸となって、「ゆめの学校」を自らの手でつくり上げていった。

ゆめの学校建設
薪割り

玉川学園創設にあたって、塾教育は大きな目的の一つであった。1948(昭和23)年発行の『玉川塾の教育』で、國芳は次のように述べている。

私は、何だか、教育というものは八時以前と三時以後にホンモノがあるような気がします。
    (略)
塾教育は実に、心から心への教育即ち人格から人格への教育です。言い換ると、之は内面からの教育です。かかる教育を受けたものの社会は互に理解を深くし、同情を厚くすることが容易だと思います。故に塾教育こそホントの社会改造の道だとも首肯されます。

塾生の朝の聖山礼拝
塾の部屋での語らい

それから半世紀にわたって「ゆめの学校」は拡大を続け、幼稚園から大学・大学院までを擁する総合学園へと発展を遂げた。國芳は全国各地を教育行脚し、「教育立国」の夢を訴え、「全人教育」の理想を語った。

3.全人教育の実践

創立以来「全人教育」を教育理念の中心として、人間形成には真・善・美・聖・健・富の6つの価値を調和的に創造することを教育の理想としてきた玉川学園。そのめざすところをよりわかりやすく説明しているのが、教育12信条である。全人教育の理想を実現するために、全人教育、個性尊重、自学自律、能率高き教育、学的根拠に立てる教育、自然の尊重、師弟間の温情、労作教育、反対の合一、第二里行者と人生の開拓者、24時間の教育、国際教育といった12の教育信条を掲げて、玉川学園は総合学園として一貫した教育研究活動を実践している。

玉川学園創立時の児童・生徒・教職員 1929(昭和4)年4月8日
玉川モットー

さらに実践にあたって、

人生の最も苦しい いやな
辛い 損な場面を
真っ先きに微笑を以って
担当せよ

という玉川モットーを掲げている。

國芳は、自身の教育の原初から、知識のみを持って社会に貢献するのではなく、自ら困難な場所へと敢えて入っていき、額に汗しながら世の中のために貢献できるような人材を育てたいと思っていたのだ。労作が欠かせない玉川の丘での学校生活は、まさにそうした教育の具現化であろう。

労作

國芳は常々「額に汗を流し、労しむことは万人の喜びであり、誇りであり、義務である」と考え、労作教育を重視してきた。國芳は「労作」の「作」は作業の作ではなくて、創作の作であり、「自ら考え、自ら体験し、自ら試み、創り、行うことによってこそ、真の知育、徳育が成就する」と考えた。國芳が目指したのは、「労作によって知行合一の強固なる意志と実践力を持った人間形成」であった。

農作物づくり
養蜂

そもそも労作教育は、20世紀の初頭にドイツの教育改革運動のなかで生まれた。従来のような書物中心の詰め込み教育への反動として、ゲオルグ・ケルシェンシュタイナーらが提唱したのが始まりである。國芳は、「百聞は一見に如かず、百見は一労作に如かず」と繰り返し語っており、「真の知育は注入や棒暗記、試験勉強や単なる説明などの方法では得られるものではない。苦しみ、作り、体験し、試み、考え、行うことによってこそ得られる」と考え、労作を重視した。本に頼るのではなく、畑を耕したり、動物を飼育したり、バイオリンを作ったりといった「自発的な活動や創造的な仕事」を学びのなかに積極的に取り込んでいった。

バイオリンづくり
飼育

本学では、創立間もないころ、児童・生徒・学生や教職員が一丸となって、道を造り、校舎を建て、木を植えるなど、環境を整備してきた歴史がある。また、労作は時代とともにさまざまに変化してきた。例えば、昭和初期には、女子高等部生(専門部)による『女性日本』の編集、中学生によるパイプオルガンの組み立てや修理、そして養蚕、養鶏、園芸、女学部生(高等女学校に相当)の生徒による機織りや玉シャツ作りなどが行われた。また、塾生を中心に生活当番としての新聞や郵便、牛乳の配達なども行われた。

ホームスパン織り
パイプオルガンの組み立て

現在でも、小学1年から大学までカリキュラムのなかに「労作」の時間が設けられており、教科学習のなかにも労作の要素が取り入れられている。例えば、実験や観察を含む理科、職業としても扱われる農業・工業の学習は労作の影響が大きい。あるいは、文学的、思索的教科においても、子供たちの創造性を促すことで、労作的学習が可能となる。特に、小学生の段階では、実験・観察、創作などを通じて、労作と教科の一致を追求している。

建築
自由研究

労作教育とともに、宗教教育を重んじている。特定の宗教を限定せず、広い意味での宗教心を一人ひとりに持たせ、真の人間を育てたいという玉川における宗教教育の理念は、終始一貫して玉川教育を支えてきた。國芳は、宗教教育は人間教育であり、他者を思い、平和を愛する心を育む教育であると語っている。そして礼拝の時間が幼稚部から大学まで設けられ、園児・児童・生徒・学生ら一人ひとりが聖なるものと向き合うことで、感謝の気持ちを抱き、自分自身を見つめることで、他者を思い、平和を愛する心を育んでいる。

礼拝
クリスマス礼拝

芸術教育、例えば音楽教育については、國芳は「音楽」によって玉川学園の精神的な基礎づくりをしたいという信念を持っていた。國芳著「私の音楽教育八十五年」(玉川大学出版部から1971年に刊行された迫新市郎著『私の音楽教育八十五年-創造性を高める-』のP.202~P.221に所収)には、國芳の音楽教育に対する期待が次のような言葉で示されている。

「音楽は、すさんだ心をなごやかにし、暗い気持ちを明るくし、悲しみをなぐさめ、疲れをいやし、希望を与えてくれます。この音楽の持つ不思議な力を教育でも十分に利用したいのです」また、「音楽こそは、人と人の心を結ぶきずなとなるものと考えます。教育が、人と人との触れ合いの中にあることを考える時、立派な音楽なくしてマコトの教育はあり得ないとさえ考えます。どうぞ、世界に誇り得る教育が、文化が、民族が、出来上がる日のためにも、音楽の楽しみを、今日、今から大事にしていただくよう祈ります」と。

歌に始まり歌に終わる
合唱祭

演劇教育については、『全人』第288号(玉川大学出版部発行)に次のような記述がある。

演劇は人間の生き方に最も深くふれる芸術であり、それが教育の中に正しく生かされた場合には、人間陶冶の優れた方法となる。演劇創造による教育は、玉川では全人教育の一環として、早くからその実践と理論的探求がなされ、大きな足跡を残してきた。

学校劇「青い鳥」
学校劇「ピーター・パン」

道徳教育については、國芳著『道徳教育論』(玉川大学出版部発行)に次のように記されている。

学校全体が、教育全体が道徳教育の場です。一切合財が、道徳訓練、人格完成でないものはありませぬ。だが! だから、道徳教育はそれで十分だと思ったら、いけませぬ。絶対に、その中心となる、核となる、指導星となる修身科(道徳科)がないと、方向を失い、漠然として力が消え、大事な善悪正邪の批判力を失います。
    (略)
人間関係、個性尊重、協同、互助、信頼、敬愛、校友、忠言、誠実、公正、中庸、同情、仁愛、礼儀、作法、謙譲、寛容、名誉・・・・・・いろいろの諸徳を理解し、且つ体得せねばなりませぬ。

森の修身

健康教育については、國芳は著書『全人教育論』(玉川大学出版部発行)の中で次のように語っている。

体育の目的はいうまでもなく、強靭なる体力、長い生命、調和せる身体、そして巧緻性だと思います。そのためには先ず、生理学的知識。基礎としての体操。そして、各種のスポーツ。特に、日本人たるために各種の武道のうち、少なくとも一つは選ばせたいです。
    (略)
体育には、節制、礼儀、克己、勇敢、共同、忍耐等の実に尊い道徳訓練が練磨されることが感謝です。

強靭巧緻な健康美をつくる玉川体操
寒稽古

4.全人教育の広がり

小原國芳は半世紀以上にわたり全国各地を教育行脚し、「教育立国」の夢を、そして「全人教育」の理想を語り、全国に新教育運動の火を点した。訪問年月がわかる教育行脚の最初は、1920(大正9)年5月1日。時に國芳33歳。場所は福島師範学校附属小学校であった。行脚は戦中の一時期中断したが、1975(昭和50)年11月まで半世紀以上続いた。訪問地は全国津々浦々という言葉が正に当てはまるほど日本全国各地にわたっている。『全人教育』の身辺雑記などの記録によれば、996にもおよぶ市町村の訪問地名があがる。

日本全国を教育行脚
『敎育立國論-日本國民に訴ふ-』

戦後第1回目の行脚は、終戦から3か月後の1945(昭和20)年11月22日、東京都江戸川区の教育会へ。困難な交通事情の中でこの行脚は再開された。さらに國芳は「新生日本は教育立国にあり」と、困難きわまる交通事情にもめげず、1946(昭和21)年1月より、全国に教育講演行脚を始める。この年、米国教育使節団が、教育改造案立案のために玉川学園を視察に訪れ、玉川の教育を高く評価した。

米国教育使節団が来園

『玉川学園五十年史』によれば、1946(昭和21)年から1950(昭和25)年の間に、國芳は北は北海道から南は鹿児島まで678回の講演を行っている。例えば、北海道で17回、青森県で14回、新潟県で19回、静岡県で124回、兵庫県で22回、徳島県で21回、広島県で23回、鹿児島県で60回。この間に行かなかった県は秋田県、三重県、和歌山県の3県だけであった。

教育講演会

行脚での講演の中心は「全人教育論」「教師論」「教育立国」など教育全般にわたり、実践の場である玉川学園についても熱き思いを込めて語った。それ故、話を聞かれた方々は小原國芳の名前とともに、玉川学園の名を記憶したことだろう。講演後には、著書や百科事典などの販売も行った。

全人教育研究大会

國芳の教育行脚は国内に留まることなく海外でも行われた。初めての海外教育行脚は1924(大正13)年8月。10日から15日まで、当時、植民地であった朝鮮での講演。以後、欧米での行脚が行われ、玉川教育についての講演は異国の地でも大きな反響を呼んだ。

ベルリン市での講演

1945(昭和20)年8月、終戦を迎えた日本国民は敗戦の影響で先の見えない日々を過ごしていたが、國芳はいち早く教育立国を唱えて新生日本の進む道を示した。そして、國芳は、第1回の新生日本教育研究会を、終戦の年である1945(昭和20)年の12月1日に玉川学園礼拝堂で開催した。その時のことが、『全人』第665号(玉川大学出版部発行)の「故(ふる)きを温(たず)ねて」に次のように記されている。

軍国主義の時代に終止符を打ち、新しい時代の教育を模索している教師たちに向かって小原國芳は、「国家の再建は教育から」と叫びをあげた。「日本國民に訴ふ」から始まる『敎育立國論』(玉川學園出版部)は、研究会講演で獅子吼(ししく)した原稿から起こしたものである。そして、新時代の日本の教育は玉川から生れるのだという強い信念を研究会の名称とした。
教職員から、自信がつくまで研究会開催は延期してほしいと申し入れ。それに対して、「人に見せられぬブザマな教育か」「他がやらぬから、やることに意味がある」と開催を強行。劣悪な交通事情の中、1,312名が全国から食料持参で玉川の丘に参集。講演会場は立錐の余地もないほどであった。翌年は一年間に7回もの研究会が行われ、「教育の玉川」の名が一躍全国に広まった。

この教育研究会は、1985(昭和60)年に90回目を迎えた。

第2回新生日本教育研究会(昭和21年)

國芳が全人教育を提唱してから2021年で100年。國芳が語った教育への熱き思いは、こうして全国に広がり、海外でも注目されている。そして、玉川学園は、全人教育のもと、教育の理想に向かい、開拓者精神をもって、未来へのチャレンジを続けている。

参考文献

  • 小原國芳著『全人教育論』 玉川大学出版部 1969年
  • 小原國芳「全人敎育論」(尼子止編『八大敎育主張』大日本學術協会 1922年 に所収)
  • 小原國芳「全人敎育論討議」
         (敎育學術研究會偏『敎育學術界』第44巻同文館 1935年 に所収)
  • 小原國芳他著『八大教育主張:教育の名著』玉川大学出版部 1976年
  • 小原國芳著『教育一路』玉川大学出版部 1980年
  • 小原國芳「教育講演行脚・身辺雑記(1)」
         (『小原國芳全集21』 玉川大学出版部 1966年 に所収)
  • 小原國芳編『教育研究問題 全人』第16巻第4號 玉川教育研究所 1946年
  • 小原國芳著『玉川塾の教育』 玉川大学出版部 1948年
  • 小原國芳著『道徳教育論』 玉川大学出版部 1957年
  • 小原國芳「私の音楽教育八十五年」
         (迫新市郎著『私の音楽教育八十五年-創造性を高める-』玉川大学出版部 1971年 に所収)
  • 小原國芳監修『全人』第288号 玉川大学出版部 1973年
  • 小原芳明監修『全人』第860号 玉川大学出版部 2021年
  • 小原信「編輯室」(『イデア』第74號 イデア書院 1929年 に所収)
  • 石橋哲成編著『全人教育論―講義資料集―』 2005年
  • 石橋哲成著『新教育運動の展開、小原國芳の全人教育思想、そして玉川学園の教育』
           玉川大学学術研究所 2013年
  • 白柳弘幸「故きを温ねて(89)全人教育の原点」
         (『全人』第860号 玉川大学出版部 2021年 に所収)
  • 白柳弘幸「故きを温ねて(31)教育立国/新生日本教育研究会」
         (『全人』第665号 玉川大学出版部 2003年 に所収)
  • 玉川学園編『学園日記 労作教育研究』第50号 玉川學園出版部 1933年
  • 玉川學園小學部編『労作敎育の實際』 玉川學園出版部 1935年
  • 書上喜太郎「村の第一夜」(『學園日記』第1號 玉川學園出版部 1929年 に所収)
  • 塾編集委員会編『玉川学園 塾の歩み五十五年』
              玉川大学・玉川学園女子短期大学塾 1985年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史(写真編)』 玉川学園 1980年
  • 玉川学園編『玉川教育―1963年版』玉川大学出版部 1966年

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