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玉川中学校

2013.06.21
玉川学園入学記念 1929(昭和4)年4月8日

玉川中学校(現在の玉川学園中学部・高等部)は、1929年(昭和4)年4月8日に創設された。当時の校舎は聖山に対する松蔭橋の上の丘(現在キャンパスセキュリティセンター、研究・管理棟がある)に位置し、中学校本部棟とその裏の理科教室、太鼓櫓、食堂、教室などが廊下でつながっていた。また、三角点の丘との間には、畑が広がり、三角点側には東山塾などが数棟にわたって造られ(現在の農学部温室)、さらにこの上には牛舎があった。

設立当時の教育内容は、一般の中学の教育に加え、自学指導及び、労作指導を重視し、家塾の気風を加味したものであった。中学校の一日は、午前中4時間は学習、午後は武道、労作、体操、音楽を主として学習した。労作は各学年によって多少異なるものの、1週2時間から9時間が充てられ、午後の授業が終わった後、教員の指導の下、行われた。

地理の学習

その具体的な内容は、農芸(一般野菜、園芸、造園、植林、炭焼き、果樹、開墾)、飼育(牛、豚、鶏)、土木(道路修理、排水掃除)、工芸(木製器具、簡易機械、玩具)、印刷(活字鋳造、製版、紙型)、購買(学用品、住宅地物資取扱)、図書(図書の購入、整理、管理)、編集(雑誌編集、校正)と、多岐にわたった。

創立年度に中学3年生までの入学を許可し、第一部と第二部に分かれ、授業を行った。第一部はいわゆる普通の中学校に相当し、学園村あるいは近郊からの通学生が主であった。生徒の大半が、成城高等学校への進学、あるいは音楽学校、美術学校、士官学校、兵学校、水産学校などに進学を希望した。一方、第二部は中学のみで完成教育を行う、塾生を中心にした学級であった(1934年に一部と二部が合併される)。

歴史の学習 1941(昭和16)年

しかし、1935年秋からは新たに4部構成となる。具体的には、第一部は体の悪い人のために、第二部は迷える人のために、第三部は旧一部のように大いに勉強するために、第四部は旧二部のように四H(手・頭・心・体)のしっかりした人をつくるために、と記されている。小原國芳は四部構成をとった理由について「各自が自由の中に勉強することが出来る様にする為である」と語っている。このような部別の分類は、生徒それぞれの生活環境、適性、進路に根差した個々の学習を進めさせる方法であった。

当時の玉川中学校は、家塾の気風が強く「師弟同行の精神に則り、家塾訓練を重視している」点が特徴的であった。また、自学の精神にのっとり学習指導を行うにあたって、指導案やテスト法、一斉学科との関係、自由研究や発表の問題、進級の問題など、課題は多く、当時の教員は懸命に教授法を模索したようだ。いかにして、生徒の興味を喚起するか、自発的な精神を促すか、いかにして心を養成するかに尽力していた様子が、当時の記録からうかがえる。

野外観察 1929(昭和4)年

初期の指導要領を見てみよう。
(1)自学自習を徹底し、周到な指導案を作成し、自由な進度をとらせること。
(2)教材を研究し、系統を整理して、無用な繰り返しを省き、且つ内容を精選して優秀な教科書を編集し、短い時間に豊富なものを習得し、応用自在ならしめること。
(3)学習者の意気込みを奨励すること。
これによると、現在にも続く自学自習システムがすでに運用されていたことが見てとれる。生徒によっては1年で2年間の学習を終え、飛び級をさせた例もあったという。

丘の上の中学部本館 1930(昭和5)年

また、現在のクラブ活動ともいえる校友会の活動も積極的に行われた。具体的には、乗馬部、デンマーク体操部、音楽部、自動車部(自動車練習)といったものから、太平洋戦争中は時局を反映し、国防部、射撃部、グライダー部、落下傘部、国防競技部、ボート部、海洋部、航空部などの諸部が活発な活動を行った。戦中は生徒も勤労奉仕に、慰問隊に、防空演習にと授業時間を削られたり、食糧増産のために、グラウンドの周辺まで開墾し、野菜を作るといった労作も行われた。 戦後1947年には、学校教育法施行により玉川学園高等部として新たに設置認可が下りた。

参考文献
『玉川学園概況』1932
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980
『玉川中学校設立申請書』

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