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八大教育主張

2013.08.02

小原國芳の理想の教育―「全人教育」が生まれた日

八大教育主張とは、1921(大正10) 年8月1日から8日まで、東京高等師範学校(現・筑波大学)の講堂で、大日本学術協会が主催して開かれた講演会を指す。正式には「八大教育主張講演会」という。講演は連日、18時から23時ごろまで行われ、講演2時間半、質問、討議の時間で構成され、その他、新宿御苑や文部省などの見学も実施された。

講演を行ったのは小原國芳をはじめとした教育改革に深い関心を持つ人たちだった。その多くは、教育現場の陣頭に立ち、理論上・実践上の苦闘を経験した教員や師範学校教員であった。8人のうち、4人が30代、3人が40代であったことからも分かるように、壇上に立ったのはいわゆる「第一線で活躍する新人指導者」であり、教育学者は一人もいなかった。八大教育主張は、教育界における大正デモクラシーが花開いた瞬間であった。

この講演会では、1.自学主義教育の根底(樋口長市)、2.自動主義の教育(河野清丸)、3.自由教育の真髄(手塚岸衛)、4.衝動満足と創造教育(千葉命吉)、5.真実の創造教育(稲毛詛風)、6.動的教育の要点(及川平治)、7.文芸教育論(片上伸)、8.全人教育論(小原國芳)といった、8つの教育主張が展開された。

明治時代までの教育は、教師が中心となり、児童に学問を注入し、模倣させることをよしとしてきた。しかし、8人の論者は各自持論を展開、既存の教育に疑問を投げかけた。それぞれの主張には、当時の欧米の新教育思想や教授法の影響が見られるが、従来の教育学者のように翻訳紹介にとどまらず、自分の実践をふまえて自説を打ち出そうという意気込みが感じられた。また、8人の主張には、自由や創造性を尊び、成長の能力を重んじようとする、児童中心主義傾向を持つ点に共通性があった。

会場の様子

小原國芳の「全人教育」という言葉が聴衆の前に提示されたのは、このときが初めてであったが、その後、初等・中等教育の現場で、教育理念を語る言葉として広く流布するようになった。

この講演会には、夏の暑い盛りにもかかわらず、北は北海道から南は沖縄、さらには台湾や朝鮮、満州、樺太などの各地からも参加者が集まった。講演会当日は主催者側の予想を超えて、会場定員2000人のところ5500人にものぼる参加申込者が殺到するほどの盛況ぶりであった。

小原國芳はのちに、当時を振り返り、次のように語っている。

「……集るもの恐らく四千名を越えたろう。大講堂ミッシリ。廊下もぴっしり。窓も鈴なり。熱狂そのものだった。ホントに湧き立った。考えてみると、八人もえらかったが、大正の教師たちは真剣だった。特に、小学校教師は! みな、身銭を切って、全国から集ったのだった。日本教育の頂上だったろう。上や外からの圧迫もひどかったのに、内から、下からの燃え上がりだった。(中略)世界に類例のない崇いものだった」(『八大教育主張 復刻版―復刻に際して』)

講演が行われた翌1922年1月に同協会から講演録が『八大教育主張』と題して刊行された。

この書籍は、従来の教育に飽き足らない向上心あふれる青年教師たちの関心を引き付け、約2年間に10版を重ねるほどの売れ行きであった。当時の教育界がいかに新しい教育理論を渇望していたかがうかがえる。

講演を行った教育者のうちの多くが他界したのち、小原國芳は1976年に玉川大学出版部から「教育の名著」シリーズの一環として『八大教育主張 復刻版』を出版する。復刻に際して、小原國芳は次のような思いを寄稿している。

「どうぞ、往年のあの八大勇士たちの、いな、全国の小中学校教師たちの、あの意気込み、あの真剣さ、あの真実さを、半世紀たった今日、今の若人たちに研鑽して頂いて、マコトの教育、ホントの教育をこの国に、いや全世界に再生して欲しいのである」。

参考文献
小原國芳『全人教育論』(尼子止編『八大教育主張』大日本学術協会 1922 所収)
小原國芳『全人教育論討議』(教育學術研究會偏『教育學術界』第44巻同文館 1935 所収)
小原國芳『八大教育主張 復刻版』玉川大学出版部 1976
鈴木博雄編『原典・解説・日本教育史』日本図書文化協会 1985
中野光『学校改革の史的原像』黎明書房 2008
民間教育史料研究会編『民間教育史研究事典』評論社 1975
文部省『学制百年史(資料編)』文部省 1972

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