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玉川学園富士高等学校

2013.08.05

玉川学園初の通信制普通科高校

第1回卒業式

富士高等学校は、1964(昭和39)年に開設された通信制普通科高校である。1973年に休校(1995年に廃止)するまで、9年間にわたって、玉川学園内と静岡県内数カ所の分教室で教育が行われた。
そもそも富士高等学校は、1962年に矢崎総業株式会社(当時、矢崎電線工業株式会社ほか2社)から本学に、同社の社員教育に協力してほしいという要請があったことが設立の契機となった。
当初は会社からの委託学生を受け入れることで話し合いが進められていたが、その過程で、玉川学園が矢崎社員の資質向上に全面的に協力をすること、その一環として、通信制の高校を設置し、同社の社員(最終学歴が中学卒業の者)に高校課程の教育を行うという発想が生まれた。

式には矢崎社長も出席

1963年には、高等学校設置の準備委員会が開かれ、そこで交わされた覚書には、「教育の産学協同について完全に意見の一致をみた」と始まり、「矢崎と玉川とは共同して、社員教育の目的で定時制高校、高校通信教育の開校に努力する」と明記されている。
設置趣意書には「日進月歩の工業界、科学界の現場に職を有する青少年に、ふさわしい学識を習得させ、正しき方向へと指導」し、「工場に働く青少年達の燃えるが如き向学心に応え、工場主と相結び、中学卒男女従業員のための勉学の環境を整備し、従来の通信教育にややともすれば欠けがちな教師との人格的接触の問題を重くとりあげ、本学園の基本的教育方針であるところの自学自習、個別指導をもって、道徳的宗教的にも理想的な高校通信教育の実施を志向」とある。

音楽祭で「栄光あれ」を演奏する富士高校生徒

第一回入学式は1964年4月に本学礼拝堂で行われ、入学者は487人を数えた。当時は交通機関も整備されていなかったため、入学者は早起きをし、汽車に揺られて集まってきた。入学者の大半が矢崎の従業員として数年働いているため、平均年齢は高かったが意欲にあふれており、初年度の教室はどこも満員御礼であり、講堂でマイクを使って講義が行われるほどであった。

富士高等学校は基本的には通信制の普通科という形態をとっていたが、教育課程のなかで工場従業者教育の意義を持たせるように配慮された。また、受講生が矢崎の工場がある静岡県下4都市(湖西市・天竜市・島田市・沼津市)に分かれていることから、玉川の教職員が月2回の割合で、出張スクーリング授業を行った。授業科目は英語、数学、国語、社会、音楽の5科目であり、教員は本学の高等部の教諭を中心に、小学部、大学、大学通信教育部などから講師が派遣され、隔週のスクーリングとレポート出題が行われた。

富士高校生による第1回文化祭

授業が行われたのは工場が休みになる土曜日と日曜日。教員は文字通り、静岡県の西端から東端までを丸一日かけて走り回って、4つの教場でそれぞれスクーリング授業を行った。受講者は200人。休日にもかかわらず、会社の通勤バスや公共の交通機関を乗り継いで、受講生が集まってきた。その態度は真剣そのものであったという。富士高等学校は画期的な試みではあったが、スクーリング授業を行う講師は週末も休みなしで授業を行い、生徒も仕事のかたわら授業を受けるため、疲労が重なっていったことは否めない。
開校当時、生徒は授業に年間22回出席することが義務付けられていたが、1965年からは丸一日を使って、8時間授業が行われるようになったため、スクーリングは年間14、15回に短縮された。
また、通信教育にありがちな教師と生徒との人間的ふれあいの不十分さをできるだけ防ごうという狙いと、学生生活を少しでも楽しいものにという思いから、師弟同行で遠足やキャンプ、運動会、音楽会、修学旅行といった行事や合唱の指導も行われた。

富士高校の事務室
(現在の(株)タマガワイーサポート事務所隣の
旧出版部書庫の建物)

1967年、4年生まで揃った完成年度には生徒数は660人、専任教職員も15人を数えるまでになった。しかし、1970年に入ると、社会情勢の急激な変化に伴い、高校への進学率が急増。富士高等学校の入学資格を、中卒から高卒に移行することも検討された。加えて、時代は高度成長期を迎えていたため、矢崎グループでも人材の獲得に苦心することとなった。
1970年11月末には、矢崎より、入学者の送り込みが不可能になったという申し出があり、1973年、富士高等学校は一時休校として再開を期することが本学園理事会で決定され、休校届が出された。こうして富士高等学校は9年の歴史に幕を閉じた。

参考文献
小原國芳編『全人教育』No.177 玉川大学出版部 1964 
小原國芳編『全人教育』No.182 玉川大学出版部 1964 
小原國芳編『全人教育』No.184 玉川大学出版部 1964 
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園50年史』 玉川学園 1980 
『玉川学園報』169号 学校法人玉川学園 1973

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