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徳富 蘇峰

2013.11.07

ジャーナリストが見た玉川教育と小原國芳

1929(昭和4)年に玉川学園が創立した際、東京日日新聞に「憂うつな時代を捨てて寺子屋の再興、現代教育に反旗をひるがえす勤労を掟の玉川学園」という徳富蘇峰が書いた文章が掲載された。

徳富 蘇峰(1863~1957)は、ジャーナリスト・歴史家であり、近代日本の言論史上における巨人と言われている。2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」に登場する徳富 猪一郎、その人である。明治・大正・昭和の時代を跨いで、文筆活動と政治文化活動は多岐に渡り、その成果は莫大なものである。蘇峰は、本学園創立期の昭和10(1935)年6月9日に玉川学園を訪れ、そのときの様子を次のように記している。

「10時40分頃には小田急電鉄の停車場玉川学園駅の前を横切りて、松間の草原に自動車を乗り捨て、玉川学園の一室に迎えられた窓を排すれば、満目の青嵐(せいらん)は、ほとんど我等の衣襟(いせん)を染めんとした。而して窓前の栗の花は満開にて、我らを薫殺(くんさつ)せんとした。我等は丘陵を上下して、各処に散布(さんふ)されたる校舎や、講堂やを見舞うた。講堂では宛(あたか)も労作教育の講習最中であった為めに、一場(いちじょう)の講話(?)を制強(せいきょう)せられた。…(中略)…眼前の松林、巨松、若松、柯(か:えだ)を交えたる二十万坪は、今尚お人間の手を著(つ)けざる地である。もし我に陶朱の富あらしめば、之を人間修養道場と為すも、亦(ま)た可ならずやとの妄想が起こった。」

蘇峰の署名記事として、創立期の玉川の印象が客観的で的確かつ丹念に描かれ、日本全国に報じられたことは、本学園にとってたいへん名誉であったことは言うまでもない。これは、『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)の夕刊コラム「日日だより 武相の翠色」で紹介された。昼食をはさみ午後2時頃まで滞在し、創立者小原國芳と本学園教職員たちは、大変感激した。この時國芳は、蘇峰が校歌の最初の一節である「空高く野路は遥けし」と口ずさんでくださったことも振り返っている。また、生徒たちが労作している様子を見て、蘇峰は「僕の少年時代、田舎教師をした頃の熊本の田舎の学塾のようだ」と生徒たちに声をかけ、大いに力づけた。

徳富蘇峰 学園内の創立者宅の客間にて
昭和10(1935)年6月9日撮影

蘇峰が玉川学園に来園したのは、このときが初めてではなく、本学園創立間もない昭和4(1929)年の7月7日に最初の来訪記録がある。当時の生徒は「今日は有名な徳富蘇峰先生がお見えになった。…(中略)…自学自得は学問の本(もと)である。一般に学問というと本を読むことだけのように考えられているが、それは誤りである。鋸をもって薪をひくことも、鍬(くわ)をもって耕すことも皆ことごとく学問である。というようなことが主意であった。」と書き残している。労作教育に対する蘇峰の言葉に、当時の生徒・教職員が、どれほど感激し励まされたかは想像に難くない。

蘇峰と國芳の交流は、玉川学園創立前、昭和2(1927)年の澤柳政太郎の葬儀の折に出会ってからである。蘇峰は雑誌でも國芳の活動を取り上げ、その志に共感し応援していた。昭和8(1933)年『女性日本』9月号では、「小原君の一面」と題して、次のように評している。「脚一度成城の地を踏み、玉川の教育理想郷を訪れたものは、小原君に、新教育の理想に燃ゆる一面あると同時に、事業家としての一面、しかも、頗(すこぶ)る卓越した事業家としての一面のあることを承知せずには居られない。」と評した上で、「成城及玉川の存在を益々有意義に、かつ一段と確実なものにしたいと思う外、他念無き次第である。」と結んでいる。

その後國芳は、昭和26(1951)年と昭和31(1956)年の2度、熱海の伊豆山の自宅に出向き、晩年の蘇峰のもとを訪れた。書物で埋まっている書斎で、二人はしばし懇談の時間を持った。一度目に訪れた際、蘇峰は國芳に一つの短冊を手渡した。勝海舟が蘇峰に手渡したものである。

  「梅の花 枝は天下に 十文字」

短冊の裏には、

  是、明治三十二年十一月 海舟先生所贈也、
  今贈呈 小原先生 昭和二十六年十一月七 蘇叟九十叟直書

と添え書きされた上、ハンコが押されている。なお、この短冊は教育博物館に所蔵されている。

二度目の訪問時には、静養中にもかかわらず屋外を二人で散歩し、蘇峰は國芳の写真撮影の求めに応じた。國芳自身、この時の写真について、「今まで、何千枚と写真をとったでしょうが、私一生の最高の記念物です。ありがたい思い出です。」と後に記している。この他にも蘇峰にまつわるものとして、本学に2点の扁額(へんがく)がある。

  「履正莫懼」 九十二叟蘇叟  正を履(ふ)んで懼(おそ)るること莫(な)かるべし。
  「人天偕和」 人と天が偕(ともども)に和(やわら)らぐ。

國芳はこれらを朝夕に唱え、身を省みたとのことである。最後に2人が会ったのは、蘇峰95歳のとき、神奈川県中郡二宮町にある蘇峰堂(現在の徳富蘇峰記念館)における詩碑除幕式に、國芳が出席したときであった。

※旧漢字・仮名遣いは、適宜現代の漢字・仮名遣いに改めた。

参考文献
小原國芳編『学園日記』第3号 玉川學園出版部 1929
小原國芳編『女性日本』第16号 玉川學園出版部 1933
小原國芳編『全人』No.99 玉川大学出版部 1957
小原國芳編『全人教育』No.238 玉川大学出版部 1969
杉井六郎『徳富蘇峰の研究』法政大学出版局 1977
杉原志啓『蘇峰と『近世日本国民史』―大記者の「修史事業」』都市出版株式会社 1995
『東京日日新聞』昭和10(1935)年6月20日夕刊
南日本新聞社編『教育とわが生涯 小原國芳』玉川大学出版部 1997
徳富蘇峰記念館ホームページ

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