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旧制大学 文農学部

2014.03.30

旧制大学として、日本で最後に認可された大学

玉川大学予科入学式 1947(昭和22)年5月20日

太平洋戦争で敗戦を迎えた1945(昭和20)年8月15日、日本はまだ混迷の中にいた。そうした状況下においても前を向き、小原國芳は新たな一歩を踏み出そうとしていた。教育制度においても改革の実行には時間がかかっていた。けれども玉川学園は、早くも旺盛な活力をもって始動していた。
このときの玉川学園は、幼稚園(1947(昭和22)年3月まで閉校)、初等部、中学校、女子高等学校、専門部(女子高等部を含む)、工業専門学校の各部により構成されていた。なかでも最高学部として戦後の混乱を乗り切るために、工業専門学校の学生たちは大きな力となっていた。
玉川工業専門学校は1945(昭和20)年7月1日に航空機科と電波兵器科の二科で出発したが、直ちに終戦となったので同年9月に学則変更が認められ、航空機科は機械科に、電波兵器科は電気科となった。当時この専門学校で教鞭を執っていた鈴木清主任教授は「今こそ全日本の教育に根本的な革命の行われるべき時です。そしてその革命ののろしをあげ、方向付けをなし、道しるべとなって文化立国の動力となるべき使命がこの玉川教育に課せられたのだと信じています」と述べているが、学生たちはまさにその先頭に立って活躍をしていた。

大学予科(文科)校舎 1948(昭和23)年頃

しかしながら、総合学園として理想的な一貫教育をという見地からすれば、何としても最高学府たる大学の設置が求められていた。このことは、小原國芳をはじめ玉川学園の多年の悲願であり、また玉川教育を普遍化していくという使命にもつながることであった。そして1946(昭和21)年10月1日、財団法人玉川学園は、大学令による玉川大学設立を申請し、1947(昭和22)年2月24日に認可を受け、同年5月21日に開校式の運びとなった。前年に開会された帝国議会において学校教育法が可決成立する見込みとなったこともあり、旧制大学令に基づく大学認可は玉川大学で終了した。つまり当時の玉川大学は、日本における最後に認可された旧制大学であったのだ。学部は文農学部で、文学科と農政学科の2学科からなり、大学予科と研究科も併置するという組織で成り立っていた。
開校式で読まれた高橋誠一郎文部大臣の祝辞は、そのような玉川教育の位置づけと玉川大学の設置の意義を明確にするものであった。「今や学制の改革をはじめとして新教育の実現に必要な施策が着々と進められているのであって、固有の理想をもつ私学に対する要望は、いよいよ切なるものがある。この時にあたって、二十年来塾生活と労作を旨として、個性を尊重し、自由教育、全人教育を実行して日本の教育革新に貢献して来たこの学園において、さらに大学を新設し、幼稚園より大学まで、一貫した教育の実施を見るに至ったことはまことに慶ぶべきことである。過去の体験によって作り上げた教育の方針と方法に基づいて設備を充実させ、真理の探究と技術の修練とをもって有為な人物を養成するならば、日本及び世界の発展に寄与するところ決して少なくないことを信ずるのである」。
高橋文部大臣は玉川学園の教育理想と実践とをよく理解し、その伝統を生かすことが大学の進むべき方向だとしているが、1947(昭和22)年3月、初めて公にされた「玉川大学要覧」において次のような教育方針が述べられている。

  • 全人教育と個性尊重
    単なる知識人、せまい技術家たるをもって満足せず、いわゆる4H、頭(head)と胸(heart)と手(hand)と健(health)のそろった人間、言いかえれば、精深な学問と高い道徳、宗教的信念と清純な情操をかね備えた人間を養成したい。
  • 自学と労作教育
    自啓自発、自学自律、創造発明、和親協力の精神を啓培するため学園創立以来自学と労作を教育の中核としている。これにより真理探究の学徒たるとともに実践力ある文化の指導者たらしめたい。
  • 生産教育
    労作することによって活きた知識を獲得し、その結果生産されたものは学生の研究の資となる。言いかえれば生産と学問の教養の一致する境地が本学教育のねらいである。
  • 大自然と塾教育
    相模丘陵の大自然の中に広い校地をもっている本学園は、事情の許すかぎり全寮制度をとり、自然に則し、師弟同行、長幼相助の24時間教育を理想としている。

大学予科(理科)校舎 1948(昭和23)年頃

玉川大学はこの教育方針が示すように、玉川学園の建学の精神を継承し、全人教育を基調として個性を尊重し、自学と労作を教育活動の中核としながら、学問の神髄を究めるとともに、生産に直結しながら、しかも大自然を舞台とした研究と塾教育の伝統を展開する、などを基本精神とすることを宣言している。

新たな日本のかたちをようやく見えてきた終戦直後の時代であり、多くの物事に急激な変革が求められていた。教育においても文部省が1946(昭和21)年12月30日に、いわゆる「6・3制教育体制」を発表、翌1947(昭和22)年3月31日に教育基本法・学校教育法が公布されることとなる。これに伴い玉川大学も新制大学へと切り替えていくこととなった。
旧制玉川大学が実際に教育活動を行ったのは短い期間であった。だがそこには、終戦を迎え「教育こそが未来の日本をつくるのだ」という、小原をはじめとした学園関係者の強い想いが表れている。



参考文献
玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』 玉川学園 1980

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